マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第18回〉1-2-2 説明の範疇xxiii,xxiv

 直接性と主体性

 前回見たような「機能」に関する記述から導かれて、第二十三の説明では前回触れた「リアルな内的構造」の意味が開示される。この「自己自身に関して機能すること」、すなわち自己の中に他の実質を招き入れる形で自己を形成していくことこそが、その自己の「内的構造」にほかならないのだとホワイトヘッドは主張する。興味深いことには、ホワイトヘッドがただちにこの内的構造を現実的実質の「直接性(immediacy)」であると言い換え、またその直性を享受する当の実質のことを「主体subject)」と呼称している点である。

 直接性、直接与えられたものを考える場合、一般的には何か一回的なもの、個的で内的な完結性をもっているものとして考えられることが多いように思われるが、ホワイトヘッドにおいて直接性を持った実質、つまりそこで起こる諸抱握の主体は決してそれのみで完結しているのではない。これまでみたような自己自身への機能によって、他の実質がそこでは当の実質自身の形成に寄与している。このような意味で、ホワイトヘッドの言う直接性や主体といった概念は、一般的な用法に比べ拡張された意義を持つといえるだろう。具体的に言えば、主体や直接性はそれ自体において閉じたものでは決してなく、常に複合的な要素を不可避的にもつのだということになろう。このことに関しては、ホワイトヘッドの「現示的直接性(presentational immediacy)」という概念を巡る議論に注視することが必要になるだろう。

 主体という概念が、これまで見てきた意味での内的構造であることが言われたが、他面「客体」という概念が果たす意味をここで付言しておくことは肝要であろう。事実第二十四の説明は、諸実質の「客体化(objectification)」について簡単に語られている。

一つの現実的実質が他の現実的実質の自己-創造(self-creation)において機能するということは、前者が後者の現実的実質のために(for) 「客体化」されることである。*1

 つまりは観点の違いに過ぎないように思われる。ある実質が自身の形成のために他の実質を自己自身に向けて機能させている際、(そこでは内的な構造化が行われているわけだが)機能しているところの諸実質は、形成されている真っ最中の当の実質に対して「客体化」されているというわけであるだろう。

 第八の説明で見られた現実的実質についての「二つの記述」を個々で確認することは些か有益かもしれない。*2一つは「他の現実的実質の生成において、『客体化』されるためのそのpotentiality」の記述であり、それはまさに今確認した「客体化」の記述であり、別の実質の自己創造に関わる限りで考えられるある実質の記述であろう。もう一つは「それ自身の生成を構成する過程」を記述するものであった。これは前回から見てきたような自己形成の過程であり、主体の形成過程である。

 問題になりそうなのは、この主体と客体の絶妙な関係を、どのように解釈するかということになろう。主体が形成される際、それが不可避的に他の実質の客体化を含む点までは了解できる。しかしその主体が生成する際、それはその実質が他の実質において果たす客体的な機能をも含めて生成するのだろうか。もしそうだとすれば、主体と客体の二分法は、少なくとも何らかの改定を試みなければ、立ちいかない構図であるという主張につながるだろうが、果たしてそこまでの主張を整合的に提出できるだろうか。

 一応次回で説明の範疇は見終わるとは思うが、この問いへ答えをそこで求めるのは焦りすぎというものだろう。

*1:forが「にとって」と訳されていたが、目的や指向のような意味合いを見いだして「ために」と訳出。

*2:第八の説明はここで検討されている。

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