マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第24回〉1-2-3 範疇的拘束ⅸ

自由と決定性

 最後となる第九の範疇は、自由と決定性(freedom and determination)に関して以下のような説明がなされる。

各々一つの(individual)現実的実質の合生(concrescence)は、内的には決定されているものの外的には自由である。

前者の内的な決定(determination)とは恐らく、様々な諸抱握によって形成される主体(現実的実質)が、自身の主体的指向とそのもとで自らに客体化されるものとしての他の諸現実的実質にいわば限定されている(definite)という議論を踏まえて言われているものと解釈できるように思われる。

 しかしその「決定」が、具体的に何をどの程度決定するかについては確認する必要があるだろう。ここで問題となるのが、先に検討した現実的実質の「満足(satisfaction)」を巡る解釈である。

 当ブログで書いた、私の「満足」に対する疑問は、まさに今回扱う「決定」というところにあった。具体的には、ある実質がその「客体的性格」に関しても決定されているという点である。前にも書いた通り、これを字義通り受け取りすぎてしまうと、まさに「外的な自由」という第九の範疇の内容と矛盾するようにさえ思われてしまう。あり現実的実質の生成過程が終了し、満足が起こるその時にはすでに、他の実質に対するその実質の持ちうる機能、影響がすべて決定されてしまっているというような解釈が、そこから起こりかねない。

 恐らくこの解釈に欠けている視点は、当の実質が客体化されるところの別の実質の視点であるように私には思われる。他の実質への客体化ということを考えるとき、思い起こすべきであるのは第二、第三の範疇であるだろう。そこでは、客体化される実質が、その実質としての同一性を保ちながら、全く同一の機能を他の実質において果たすわけではないことが端的に述べられている。つまり肝要であることには、ある決定された実質、もっといえばその客体的機能について決定された実質というものを想定した場合でも、その機能の「全てがそのまま」他の実質に作用するのではないということだ。

 現実的実質の外的な自由は、ここにおいて獲得されると考えて差し支えないだろう。その実質は、主体の合生の中で確かに客体的性格を含めて決定されているが、その決定されているものから何が他の主体によって選択されあるいは選択されないか、またもっといえば、それがどの程度の強度でもって享受され得るかといったことは決定されていない。

自己超越体(superject)

 このような自由の説明に続いて、ホワイトヘッド哲学において最重要ともいえるタームが導入されている。ここで詳述はできないが、この範疇において「自己超越体」という概念が初めて紹介される意義を仮設的に確認したい。

 今回これまで見たような自由を、ホワイトヘッドは「合生について、主体ー自己超越体(subject-superject)が決断(descision)する余地がある」と換言していることに注意したい。先述した内容に基づくと、ある実質が客体化される時、その実質はそれ自身を超えて客体化、抱握されてはいるものの、それ自身の要素を、それを抱握する主体の「決断」(選択)に応じてある意味で残存させているということができるだろう。

 ここにおいて、主体の生成と、その生成した主体が新たな主体の生成のために客体化されるというプロセスがある。このようなプロセスをこそ、ホワイトヘッドは「自己超越体」と呼んでいるように目下考えられる。そのような自己超越体が「決断」するといわれているのは、その決断がもはや一つの主体によるものではないということを示唆しているようにも思われる。単一の主体としての実質が、それ以外の、それを超え出た主体によって決定され続けていくというような宇宙観が、ここからみてとれる。