マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第25回〉1-2-4 まとめ回(?)決定性の謎

 範疇的拘束の列挙も終わり、第二章の最後に当る第四節では、「予備的な注釈」がなされている。とはいえ、殊に前半部分はこれまでの説明の範疇に付言する形でホワイトヘッド哲学の大枠が確認される箇所となっている。

相対性と新しさへの前進

 第四の説明と第一の説明からともに帰結するものとして、ホワイトヘッドは「相対性」と「創造的前進(creative advance)」という二つのモチーフを取り出し、諸現実的実質の生成過程としての現実観を総括している。

 確かに第四の説明で語られた「相対性原理」を見ると、遍くすべての現実的実質は、それ自身とは異なる実質に抱握(客体化)され、その実質の構成要素となり得ることが確認されるだろう。この意味で、現実的実質という観念は、”an element contributory to the process of becoming"に他ならないと言われる。またここから、ある実質が他の実質を構成し、またある実質は他の実質から構成されるのであるから、一つの実質は他の全宇宙の実質と全く切り離しては考えられ得ず、「完全な抽象(complete abstraction)」があり得ないという有機体の哲学における根本的なアイデアに連れ戻されることになる。

 「新しさ」というモチーフは、このような現実的実質同士の連関が、いわば不完全な形で起こっているということに起因するだろう。換言すれば、ある実質は他の実質を完全な形で内包(comprehend)するのではない。あくまで部分的あるいは元の実質を超え出て、様々な強度で抱握(prehend)するのだということができる。このような、実質をいかようにして抱握するかを差配していたのが主体的指向であることは先に見た。したがって、ある実質は他の実質を自身あるいは自信を含む結合体に「従属(subordinate)」する要素として抱握するのであり、そこには当の実質に「とっての」新しさが不可避的に生まれている。

形相的構造(formal constitutions)における決定性

 これまで現実的実質について強調されてきたことに、未決定性(indetermination)すなわち、その現実的実質がそれ自身を超え出たものによって制限されたり決定されたりする余地を残す、という性質があるように思われる。ホワイトヘッドが単なる「主体」ではなく「自己超越体」という意味で現実的実質を捉えるのは、このような傾向から見れば自然であるだろう。このことを踏まえると、以下のホワイトヘッドの記述にはいささか驚かされることになろう。

現実的契機(actual occasion)は、その「形相的(formal)」構造においては、一切の「未決定(indetermination)を欠いている。 potentialityはそこにおいて実現(realization)されている。現実的契機は一切の未決断(indecision)を欠いた、完全で決定された真なる物事である。

  問題となるのは「形相的構造」が指す内容であろう。一見これは、恒常普遍たる形相すなわち永遠的客体であるようにも思われるが、*1その考えは棄却される。引用に続いていく記述に、「永遠的客体、命題、そしてより複合的な幾らかのコントラストは、本性上未決断を含んでいる」とあるからだ。確かに永遠的客体は、それがどのような実質にどのように進入(ingression)するかという段階を残して、そこに未決定性を持っていると考えられる。仮に同じ「甘さ」という永遠的客体があったとして、それがカメレオンに享受されるか、あるいは甘いものが苦手な人に享受されるかといった他の諸実質との関連において、全く異なった機能をそれは持つだろう。具体的にホワイトヘッドは以下のように述べる。

[永遠的客体や命題、コントラスト]自身の本性は、それ自身において、自身の進入におけるpotentialityが、どの現実的実質において実現されるかを明らかにしない。したがってそれらは、[現実的実質の形相的構造の場合と比べ]より完全な意味での非決定性を内包する。

 この差異は重要であろう。つまり、端的に言えばある事柄の未決定性とは、それがどの現実的実質に作用するかが未決定であるということと捉えることができるということだ。その点現実的実質は、他ならぬ当のその現実的実質自身に関して決定的であるということができるだろう。

 そこで問題となるのは、現実的実質は自身の何に関して決定的なのだろうか、という問いである。おそらくこの答えは、自身の「形相的構造」に関して、ということになるだろうが、その内実はどのようなものだろうか。

 この問いについてここでは試論的にかつ漠然と述べるにとどめたいが、この形相的構造の理解には現実的実質を「入れ物」のようなイメージとして捉えることが有効かもしれない。ある現実的実質がその現実的実質の形を保つ限りでのいわば許容量は、それが関連する他の実質によって、また自身の主体的指向などによって動的に決定されるものであろうとも、想定されることができる。その許容量の範囲で、諸抱握はその実質の形にまとめ上げられる。おそらくではあるが、この諸抱握の整序化は何も量的な物に留まらないだろう。どの抱握をどの抱握と、どのように相互作用させるかといった差配は、質的な問題ともいえる。

 ともかく目下肝要であるように思われるのは、現実的実質には何かそれにとって決定的な「閾値」のようなものが想定されるという私の印象である。そのような閾値を超えない限りにおいて、永遠的客体や命題は未決定性を残している。またさらに言えば、現実的実質は他の実質に客体化される際にも、その閾値を超えない範囲で客体化されているのではないかとさえ思われる。現実的実質は絶えず客体化されており、その意味で全く未決定なように思われていたが、少し弱い意味では、つまり客体化に関しても自己を自己を自己として保てる程度の決定は、生成の際になされていたと考えることはできないだろうか。

*1:形相と永遠的客体を同一視できない様な気もする。これには注視が必要だろう。