マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第10回〉1-2-2 「説明の範疇」ⅰ~ⅳ

 説明の範疇、27個、見ていきます。今回で全部追い切れるとは思ってませんが、まあじっくりやっていきたいです。

creatureとしての現実的契機

 内容からして、説明の範疇は幾らかのまとまりに分けられると思う。もちろんそれらは相互に連関しているのであろうが。最初の四つはホワイトヘッドの主張にとって本質的なものが凝縮されているように私には思われる部分で、後々頻繁に使用される「相対性原理(principle of relativity)」もここで初めて登場している。

 まずは最初の説明だが、

現実世界は過程(process)であり、この過程は現実的実質の生成(becoming)だということ。こうして現実的実質はcreatureであり、現実的契機とも呼ばれる。 

 第一文の主張はなんとなく理解できる。前回見たような、諸現実の多から一へ、一から多への移行と、そのたびごとの「新しさ」の導入という、進行する諸現実の「過程」をこそ、ホワイトヘッドは重視する。

 問題は第二文で、creatureという語の解釈に関わる。著作集版での訳(山本誠作訳)では「創られたもの」と訳されており、主に神の手になる創造の産物のイメージが強いが、私には、少し座りが悪いように思われる。

 私は、現実的実質というものを述語づけるものとして、ここではcreatureと現実的実質(acttual occasion)が並置されていることに着目したい。「契機」を、些か抽象的に「きっかけ」というものと考えることが許されるのであれば、「(全ての)現実的実質はきっかけである。」のような主張を浮かび上がらせることができるだろう。このような主張は、ホワイトヘッドのいうような現実観と高い親和性を獲得している。いかなる現実も、他の異なる諸現実に抱握されたりされなかったりする可能性を持っており、その意味で他の現実的実質のきっかけとなり得ること。さらにいえば、ある一つの現実的実質は現実という流れの中において新たなる現実のための「道具」であるという主張さえ可能かもしれない。

 creatureを辞書で引いてみて興味深かったものに、ホーンビーの"a person who is willing to do anything (good or bad) for the sake of reward"や、"one who is merely a tool, carrying out the orders of another person"がある。*1後者は、先述したような「道具(tool)」的な現実観との一致をみることができる点で興味深い。特にcarrying out the ordersという役割は、新たな諸現実がそこから創発するところの条件、土壌を形づくるものとしての現実的契機の性格を示しているといえよう。また前者において興味深いのは、rewardを求めて活動するものとしての現実観である。後に何度も見ることになるが、ホワイトヘッドはこの現実世界において「目的因」が排除されることを拒む。これは『科学と近代世界』における機械論的宇宙論に対する反駁からすでに顕著な傾向であるが、当ブログ第七回でもそれが現実的実質の根本的な性格として確認されている。つまり、現実的実質はそれとして何かの目的を目指し、そこに向けて自己の価値を実現しようとする「主体的志向」があるのだという主張である。そして現実的実質のそのような試みは恐らく、成功することも失敗することもあるだろう。具体的に諸現実の価値とは何か、その善悪(good or bad)はどのように診断されるかは未だわからないが、ホワイトヘッドにおいて「価値」というものが現実世界における重要な役割を果たしうるだろうという私の見立てはそこまで誤っていないと信じたい。*2

the potential unityとthe real unityとを巡る相対性原理

 第二の説明で大きな問題となるのは、第一の説明で主張された過程の内実であろう。ホワイトヘッドは、その過程はthe potential unityがthe real unityを獲得する(acquires)過程に他ならないとしている。前回見たように、ある一つの現実的実質はそれとしてthe real unityであるけれども、その形成に際し関連した離接的多様性(disjunctive diversity)においてある多なるもののネットワークから孤立させることはできない。とすると、the potential unityとは何だろうか。目下私は、それを「現実と非現実とを問わないが、少なくとも新たな現実へと生成変化しうる多様な要素」としておきたい。諸実質の可能的な相互の結びつき、その多様性のネットワークは、ある一つの現実的実質が生成する際にいわば「制限」される。そこには以前見たような「選択」などの作用があるのであり、そこにおいて「新しさ」が生まれ、現実が単なる諸現実の結びつきの継承ではないことが明らかとなる。そこにおいては、どうしようもなく新たな現実がthe real unityとして生成するのであるが、それはそれが生成するところのthe potential unityから生じているということ、それらと分かちがたく結びついていることは確かである。

 私の記述がひどく錯綜するのは、読者の方はお気づきであろうが、結局potentialとrealの区別に戸惑っているからだと思う。そこには、あまりその区別に拘泥したがらないきらいが私、あるいは私の解釈するホワイトヘッドにあるように思われるということも影響するかもしれない。そして、四番目の説明で出現する「相対性原理」が関わるのはここにおいてである。端的に言えば、相対性原理は、the potential unityがthe real unityへと相成るや否や、当のthe real unityがまた新たな実質にとってのthe potential unityへと同時に相成ること、またより正確には、the real unityはthe potential unityとして生成するということを主張するものである。

「存在(being)の本性には、それがすべての「生成(becoming)」にとってpotentialであるということが含まれる(belongs to)。これが「相対性原理」である。

あえて換言すれば、すべての現実的実質はそれ自身が新たな現実的実質に客体化されることを待ち設けているといえるだろう。当の現実的実質としては一つの完結したthe real unityであるものは、同時に新たな現実的実質に向けてのthe potential unityであるということになるだろう。*3

 今回もあまり進まなかったですが、このへんで。次回は今回飛ばした三番目の説明に触れつつ、「永遠的客体」についての説明を中心的にみていきたいと思います。

 それでは。 

 

 

 

*1:ここにおいて、ホワイトヘッドが現実というものを完全に「人格(person)化」しているのだという主張をすることは私の本意ではないことを留意されたい。

*2:「価値」(value)という言葉をわたくしは出来事それ自身に固有な実在を表すものとして用いる。」『科学と近代世界』p129

*3:アリストテレスの可能態、現実態と完全に重なるかどうかは検討すべき問題である。