マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第11回〉1-2-2 説明の範疇Ⅴ~Ⅶ

Ⅴ~Ⅵ(前半)宇宙と現実の同一性を巡って

 まず前半部分

どのような二つの現実的実質も同一の宇宙からは決して生じないということ。もっとも、二つの宇宙間の相違は、一方の宇宙に含まれ他方に含まれていないいくつかの現実的実質のうちに、そして各現実的実質が世界に導き入れる従属的な諸実質のうちにのみあるけれども。 

 ある一つの宇宙(ないし現実世界)からは、相互に区別されるような二つの(あるいはそれより多い)現実的実質は生じ得ないという主張。ここで問題になるだろうと思われるのは、諸現実的実質、そしてそれらから構成される諸宇宙の「区別」である。

 相互に区別されるだろう出来事、現実的実質を考えてみる。例えば「赤いリンゴ(がある)(を見る)」という実質と、「青いリンゴ(がある)(を見る)」という実質である。この場合、これら二つの実質を産出する宇宙はどのように区別され得るだろうか。例えばそれは、それぞれのリンゴの生産過程において見受けられる差異があるだろう。一方は「サンふじ」という品種を扱う農家から売りに出されたもので、もう片方は「シナノゴールド」であるというような場合である。このような実質の組成過程、構成要素が「従属的な諸実質」と呼ばれているとみて良いだろう。

 もっと判断が難しそうな例を挙げてみたい。「品種の特徴のゆえに青いリンゴ(がある)(を見る)」と「ペンキによって青く塗られたリンゴ(がある)(を見る)」という実質について。それらは双方ともに、「青いリンゴ(がある)(を見る)」という実質であることは間違いない。しかしだからといって、双方が同一の宇宙から生じるのではないことは明らかだ。それらが各々実質として区別される要因は、それを構成する宇宙に、それぞれ「シナノゴールドとして収穫された」とか「変わり者のアーティストによってペンキで塗られた」とかいった情報が書き込まれていることに依るからだ。いわば、宇宙の差異はそれが産出する現実的実質によって「事後的に」診断されるのかもしれない。ある宇宙の作用によって生成した諸現実的実質が区別されて差異化されることによって宇宙の方も区別されるのだろうか。とすると、現実的実質が区別されていない状態、先述したように、単に「青いリンゴ(がある)(を見る)」という実質の場合、それを生成するところの宇宙は、その青さの要因(ペンキに依るか品種に依るか)において未区別、未決定なのだろうか。しかし直観的には、ペンキに依って青いリンゴが生まれた宇宙と、品種の特性としてリンゴに青さが宿った宇宙とは厳然と区別される。

 問題は、相互に区別される二つの宇宙ないし現実から、相互に区別されえない単一の実質が生じ得るかということになるだろう。この問題の解決というほどのものでもないが、そもそも未区別で単一な実質とはあり得るのか、というのは検討に値するだろう。ペンキに依って、ないし品種に依って青いリンゴ、相互に区別される宇宙から生じたリンゴを、全く同一の実質として受け取ることは果たして可能だろうか。おそらくそれは不可能であろうと思う。結果的に、その実質が単に「青いリンゴ」という表現でしか表せないとしても、そこに逢着する過程、つまり情報に確実に差異が出るからである。少し認識論的なものいいにはなるけれど、例えばペンキのゆえに青いリンゴを単に「青いリンゴ」という実質とするとき、そこで起こっているのは「ペンキで塗られた」という情報の欠落*1であるだろう。それは観測者がリンゴをよく見ていなかったり、ここが現代アート展のディスプレイ前であることを忘却していたりすることに起因するかもしれない。他面、品種の特性のゆえに青いリンゴを単に「青いリンゴ」という実質とする際に抜け落ちている情報は、「品種の特性の表れとして青い」という情報である。差異はここに存在する。つまり、「青いリンゴ」という実質に至るまでの過程、いわば情報の組成が異なるのである。したがって、相互に区別される宇宙、ペンキリンゴとシナノゴールドを産出する異なる宇宙からは、それぞれ異なる現実的実質が不可避的に生まれる。観測者、殊に人間理性にとってその実質は一様に「青い」のだが、その青さを構成する過程において区別される。

 第六の説明は以上の議論に寄与するところが多いだろう。

ある与えられた合生(concrescence)*2の宇宙内にある各実質は、それ自身の本性に関するかぎり、多くの様態のあれこれにおいてその合生に含まれうる(can)。しかし実際には(in fact)、それはただ一つの(one)様態でのみ含まれる。この特殊な様態の包含(implication)は、相関的な宇宙によって制約される(conditioned)されるとはいえ、ただその合生によってのみ、十全に決定される(rendered full determinate)。

 例えば「青いリンゴ」という実質は、その本性の許す限りにおいて、様々な様態(mode)を持つ。それは先述したような「品種によって」や「ペンキによって」など、実に多岐に渡る。その多様性は相関的な宇宙、すなわち実質を産出する過程をなす諸現実によって整序されたものに限られる。そしてそれらの情報に関して「決定」を行うのが、当の実質による合生なのである。つまりそのリンゴが何によって青いのか、その青はどの程度か、といった細かな情報に自覚的でなくとも、仮に「単に青い」というくらいの判断しかしていなくとも、その判断の対象は他でもないそれまで積みあがってきた情報の過程の総体なのであって、それを特殊な仕方で包含していることに変わりはない。

 Ⅵ(後半)~Ⅶ 限定されたpotentialityと純粋なpotentiality(永遠的客体の素描)

 第六の説明は以下のように続く

realな合生において決定的なものとされるこの未決定(indetermination)が、potentialityの意味である。それは条件づけられた(conditioned)未決定であり、それゆえ"real potentiality"と呼ばれる。

 特殊な仕方で、ただ一つの様態で包含されるところの合生の対象は、ある程度その過程において差配されて整序されたものであり(conditioned)、無際限なpotentialityを持つものではないことがここで強調される。これと対照的な概念ともいえるのが、ホワイトヘッドの思想において重要な役割を果たすであろう「永遠的客体(eternal object)」である。永遠的客体は、当ブログでは後回しにした「存在の範疇」(The Categories of Existence)において「事実を特殊的に決定するための、純粋(pure)なpotentiality、ないし限定の形式(Forms of Definiteness)と説明されている。また、当ブログでこれまで明示していないが、第三の説明、そして第五の説明においてもそれぞれ「新しい永遠的客体というものはない」や、「永遠的客体は、すべての現実的実質にとって同一である」といった興味深い説明が行われている。

 たしかにこの二つの説明からも、現実的実質と対照的な性格がうかがい知れるだろう。絶えず過程の中で進行し、新しさを獲得する現実的実質は、それが過程であるために、現実に成り立つ他の実質との関係から無垢ではありえない。このことが先述した「条件づけられた未決定」でありpotentialityであるといえよう。他面永遠的客体は、それ自体としては不変で、同一なのであると言われる。しかし、このような主張から永遠的客体を単にプラトン的形相と捉えてしまうのは些か軽率であるだろう。永遠的客体は彼岸に留まるのではなく寧ろ此岸の形成に強く携わる。

 第七の説明では、その永遠的客体の在り方が簡単に示される。

ある永遠的客体は、現実的実質の生成へと「進入(ingression)」するためのpotentialityによってのみ、記述されうる(can)ということ。そしてその分析は、ただ他の永遠的客体のみを示す(disclose)ということ。それはpure potentialである。「進入」という語は、ある永遠的客体のpotentialityが、特殊な現実的実質の限定性に寄与しながらそこに実現される特殊な様態(mode)のことを指す。(一部拙訳)

 永遠的客体は、現実的実質の生成に、そのpotentialityでもって関り、まさにその現実に侵入する要素であることが言われる。現段階では漠としたイメージしか言語化できないが、私としては壮大な概念のネットワークのようなものを考え、それを現実的実質が、それぞれに差配された、つまり制限されたpotentialityでもって永遠的客体を享受するといったモデルを想定している。そのようなネットワークは、諸現実にそれぞれの「強度」あるいは「濃度」でもって限定された形で出迎えられるが、それ自体としては同一のままであり、純粋さを保つものであるだろう。

 後半は雑なイメージの展開になってしまったが、これからはそのような永遠的客体が理論的構築物としてのモデルに過ぎないのか、より良い定式化はできないかを探りつつ見ていきたい。

 それでは。

 

*1:この欠落はホワイトヘッドのいう「消極的抱握」という概念に近い。それはまた別の機会に

*2:私がさっきまで用いたような情報の組成と同義であると解したい