マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第12回〉1-2-2 説明の範疇ⅷ~xiii

現実的実質の二つの記述

 第八の説明は以下のようになされる。

二つの記述が、現実的実質には要求されるということ。(a)一つは他の現実的実質の生成において、「客体化(objectification)」されるためのそのpotentialityへと分析するものであり、(b)今一つは、それ自身の生成を構成する過程へと分析するものである。

「客体化」という用語は、一つの現実的実質のpotentialityが、他の現実的実質に実現される特殊な様態(mode)のことである。(一部拙訳)

 第一にいわれている現実的実質に関する説明は、以下のように考えられるだろう。重要となるのは、やはり「客体化」であり、これは端的に言えば、他の現実的実質に対して、前回にみたような「リアルなpotentiality」を供するという働きであると考えられる。つまりここにおいて、ある現実的実質が他の現実的実質に「抱握される」という側面において発揮される性格が記述されているのである。それぞれの諸現実的実質は純粋なpotentialityにおいて、多くの様態(mode)を取ることは可能である。*1しかし実際には、つまり現実として実質が生成する際には、ただ一つの様態でしか、それは現実化されえないのである(第六の説明)。その際に実質が蒙るのは、無際限なpotentialityではなく、他なる諸現実的実質によって制限されたpotentialityであり、リアルなpotentialityなのである。ここでいわれている現実的実質の第一の機能は、このような、ある実質それ自身が他の実質にとってのいわば条件や環境として、その当の実質に抱握されることを示していると言って差し支えないだろう。

 そしてもう一つの記述では、他面当の現実的実質が他の現実的実質を「抱握する」という側面における性格を表しているといえるだろう。他の実質の生成に寄与するうえでの実質ではなく、その実質自身が何によって生成しているか、具体的に言えば、何を抱握したことによって生成しているかが注目される。端的に言えば、その合生の組成、その過程でもって現実的実質を記述することがこの第二の記述の特徴だろう。

 しかし興味深くかつ重要であると思われるのは、これに続く第九の説明で以下のように言われていることである。

現実的実質がいかに生成するかが、その現実的実質が何であるかを構成しているということ。したがって、現実的実質の二つの記述は無関係ではない。その「存在(being)」は、その「生成(becoming)」によって構成されている。これが「過程の原理(principle of process)」である。

 つまり、先の二つの記述はそれぞれ完全に独立した説明と考えられるべきではなく、むしろ混然一体としたものなのである。様々な実質を抱握したものとして生成した実質は、それが他の実質に抱握されることを機能として持つ実質として生成しかつ存在するということが、ここにおいて強調されているといえよう。

抱握の要素と種類

 このように、現実的実質の分析ないし記述は、それの組成と機能との両面を語り得るものでなければならない。そしてその両面においては、「抱握(prehension)」という作用が不可避的に関わってくる。ホワイトヘッドは、現実的実質を諸抱握に分析することを「区分division)」と呼び、具体的な分析の手法として重要視している(第十の説明)。そして第十一の説明以降では、その抱握の諸要素や諸性格について、用語を導入するような形で素朴な説明が与えられている。

 ホワイトヘッドは、抱握を構成する要素としてまず三つを挙げる。それが、抱握の「主体(subject)」、抱握される対象である「与件(datum)」、そして主体がいかに与件を抱握するか、その様態を示すともいえる「主体的形式(subjective form)」である。ここにでは、ある実質が、自身の特殊な様態においてある与件を自身の具体的構成物として抱握するという抱握という出来事の素描が試みられているといえよう。

 抱握にも種別があるようだ。まず抱握は、「物的抱握(physical prehension)」と「概念的抱握(conceptual prehensio)とに大別される。この差異はそれぞれの与件に見いだされ、前者はその与件を現実的実質とするものであり、対して後者はその与件を永遠的客体とするものであるといわれている。ここではまだ、正直この二つの差異を正確に述べることはなされていない。目下問題になるであろうと思われるのは、現実的実質には永遠的客体の進入があるから純粋な現実的実質の抱握というものがピンと来ないし、また純粋に永遠的客体のみを抱握することとはどういうことかよくわからないということである。これについては、ホワイトヘッドはのちに「混成的抱握(hybrid prehension)」という以上二つの両義的な抱握についても語っているから、引き続き注視したい。

 またさらに、「積極的抱握(positive prehension)」と「消極的抱握(negative prehension)」という区別も設けられる。前者は端的に「感じ(feeling」とも呼ばれ、以降頻発される概念である。後者はそのような「感じから除去する(eliminate from feeling)」働きをもっているが、それでも一つの抱握として解される。消極的抱握は、私としては『過程と実在』においてなかなか重要な役割を持つのではないかと勝手に思っている。前回に少し言及したけれど、連続や継承を重視するホワイトヘッド宇宙論において、逸脱や欠落はどのように表現されえるのかという点に、この概念の寄与するところは大きいのではなかろうか。合生において、完全にある与件が新しい実質において消去されるのではなく、「働かないもの(inoperative)として、その与件を保持」するのだというアイデアは興味深い。

 与件は、新しい実質においても保持される。ただその保持のされ方に幾らかの差異があり、その保持にともなって残存する与件の「強度」のようなものが、合生の進行に伴って改変されていくというのが、目下私がホワイトヘッドに見る現実観であるが、まさにこの「保持のされ方」こそが先述した主体的形式であろう。第九の説明では、「情緒(emotions)」、「価値づけ(valuation)」、「目的(purpose)」、「対向(adversions)」、「離向(aversions)」*2、「意識(consciousness)」が挙げられており、消極的抱握は、おそらくこれらいずれかの要因によって起こる、合生の欠落だと考えられる。例えばある目的に適わないために当の現実においては「働かない」ものとして実質的に無きものとして扱われたり、非常に弱く価値づけされて保持されたために殆どその現実において効力を持たないものとして扱われることは現実世界の性格をうまく表現しているように思われる。

 今日はこの辺にします。それでは。

 

 

*1:うろ覚えなのだけれど、ベルクソンの可能性を巡る議論に興味深いものが在った気がする。例えば「後悔」は、何かしらの失態を犯した当時に他の可能性があったにもかかわらず誤った選択をしたことの後悔であるが、今でこそ「他の可能性」というものを考えることはできても、当時の実際の可能性の中に、その「他の可能性」はあり得ないのでは、みたいな話だった。当時の可能性は他の要因などによって制限されており、失態を回避できる選択しないし可能性は、今、過去を振り返るという新しい現実によって生じたに過ぎない。みたいな。リアルなpotentialiyもそういった可能性の話をしているのかな。

*2:いい訳が思いつかない