マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第13回〉1-2-2 説明の範疇xiv

結合体と現実的実質

 前回まで(第十三の説明まで)は主に現実的実質と抱握、そして永遠的客体についての説明であったといえるが、第十四の説明以降はより複雑な、あるいは中間的ともいえる概念が登場する。まず語られるのは「結合体(nexus)」についてである。

 結合体はこれまでのところ、現実的実質の相互の包握という事態を漠然と示すよそのように語られてきたというのが私の解釈であった。*1また他の箇所でホワイトヘッドは、結合体に「公的事態(Public Matters of Fact)」という素朴な説明を与えてもいた。以下では、結合体がどのように説明されているかを見ていく。第十四の説明では、

結合体は現実的実質が抱握し合うことによって、(中略)それらが相互のうちに客体化され合うことによって構成される(constituted)、関係するものどもの統一(unity of relatedeness)のうちにある一組の現実的実質(set of actual entities)である。(拙訳)

 といわれており、大体においてこれまでの記述と意を同じくしているように思われる。しかしながら、ここにおいて「統一」という説明が加えられていることには注目すべきかもしれない。

 わき道にそれるようだが、私が、なんとなく結合体という概念に得も言われぬ違和感を覚えていたことについて考えることは一定の寄与をするかもしれない。私の違和感は、結合体というものが単なる現実的実質とどのように区別されるかが不明瞭であるように思われたことに起因する。ホワイトヘッドは実に関係というものを重んじ、現実的実質の説明においても、それが他の実質との関係、相互の抱握のネットワークから独立に考えられ得ないことが再三確認されてきたことと思う。いましがた述べたような結合体についての記述が、現実的実質についての記述と重なって不明瞭になるのはここにおいてである。問題は、単なる現実的実質でさえ、それは他の実質と不可避的に関連するという意味で立派な「公的事態」であるのだとしたら、それと結合体を区別するものは一体何であるのかということである。*2

 ここにおいて差異化に寄与するのが、第十四の説明でいわれるところの「統一」であるのかもしれない。ただし、ここで注意せねばならないのは、私は現実的実質の方に「統一」がないことを主張しているのでは決してないということである。現実的実質の方にはむしろ、厳然たる統一が在している。それは第二の説明で言われたところのreal unityであり、当の現実的実質が合生の過程の中で関係したところの諸現実的実質を自身に向けて、自身の差配によってただ一つの様態(mode)で統一するようなことを指す。私が主張したいのは、結合体を特徴づけうるものとしての「統一」が、現実的実質におけるそれとは性格を異にするのではないかということである。

 注目すべきは、結合体における統一は構成される(constituted)ものであるという点であるように思われる。具体的に言えば、その統一はその成員である諸現実的実質間での客体化や抱握の作用によるのだろうが、これはいわば多なるものの「調和」*3のようなものとして達成されるのではないだろうか。それは決して一つの主体、一つの実質によっては達成され得ないし、さらに、それはある一つの実質が不可避的に他の実質を抱握するから一つでない実質が考えられなければならないというのではもはやなく、他の実質に抱握されるという意味での実質が考えられなければならないと思われるからである。そこにおいては、実質は文字通り現実に(同時に?)*4複数必要になるだろう。それは例えば実質AとBであり、AはBを抱握するものとしてあるとともにBに抱握されるものとしてもあるのである。反対にBも、Aを抱握するものとしてあるとともにAに抱握されるものとしてもある。そのような相互媒介的な作用によってのみ、この統一は可能となるように私には思われる。他面単なる現実的実質による統一の場合、それはもはや「構成される」ようなものではない。より粗暴な意味で、不可避的に統一が達成されるのである。端的に言えば、現実的実質における統一は「収束」に似ている。合生の過程における諸実質が当の現実的実質の観点から取り纏められ、その主体的形式の中に丸め込まれるという意味での統一に過ぎない。その意味でそれは、あくまでも私的な事態であるのだともいえるかもしれない。私性の中に他性は含まれているけれども。他面結合体が公的事態であるといわれるのは、私的なものが公的なものに差配され、また私的なものが公的なものを差配するという相互の関わりがあるからであるともいえるだろう。

 結合体における調和的、相互媒介的な統一というものを考えたとき、問題となるであろうことは、いかにしてその統一を獲得しうるのかという点に尽きるであろう。この問題はホワイトヘッド哲学全体において根幹をなしうるとも言って差し支えないために、この段階でそれに答えることは到底不可能であろうが、第十五の説明で出現する「命題(proposition)」という概念はその回答への一助となり得るであろう興味深いものである。

 次回はそこから。今回は説明ひとつしか扱えなかったけど結合体は重要な概念なのでじっくりやりました。それでは。

 

*1:

timaeus.hatenablog.com

*2:そもそもそこに区別は必須なのか、あるいはあったとしても理念的な区別でしかないのではないかといった問いは重要かもしれない。p125では「ある決定された仕方で相互連関された現実的実質の結合体というより一般的な意味において『出来事』(event)という用語を使用する。現実的契機は、唯一のメンバーをもつ出来事の限界的タイプである。」という言及がなされている。さらに興味深いことに、この「出来事」という概念は、少なくとも『科学と近代世界』においては現実的実質とほとんど機能を同じくする概念として扱われている。

*3:これは私自身のメタフォリックな物言いによる。ホワイトヘッドの言ではない。後の「収束」も同様。

*4:同時的存在者についてのホワイトヘッドの主張はまた別の機会に