マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第14回〉1-2-2 説明の範疇xv,xvi

命題(proposition)の機能

 前回は、結合体という概念において考えられる、諸現実的実質(諸多性)の統一が、当の諸実質間の相互抱握と調和によってなされているのではないかという仮説を検討した。ここで問題となるであろうことは、その統一がどのように、具体的に言えば「何において」統一されているのかということである。単なる一つの現実的実質の場合、その統一は他でもないその当の現実的実質において、そのうちに多なるものが抱握されていることに由来するものであるということができよう。しかし結合体の場合、そこには明らかに多数の現実的実質があるのであって、それぞれは相互に抱握し合うとはいえ相異なる組成を持ち、相異なる抱握作用を発揮している。このような場において調和的な統一はいかにして成功するのだろうか。

 第十五の説明でホワイトヘッドが提出する「命題」概念*1はここにおいて非常に興味深い。まず前半部分だが、

命題は、ある種の現実的諸実質が、結合体を形成するためのpotentialityにおいて統一されていること

 にほかならないことがいわれる。肝要であるように思われるのは、諸現実的実質の統一が、それらのもつpotentialityにおいてなされているという点である。どうやら命題は、諸現実的実質のpotentialityを差配し、それらを結合体という統一に導くような、諸現実的実質ないしそれらが持つ諸抱握の「誘因」であるということができるかもしれない。実際、第十八の説明でホワイトヘッドは以下のように言及している。

命題の第一義的機能が関連をもつのは感じ(feeling)の誘因としてである、というのが有機体の哲学の本質的学説である。

 すなわち結合体において、そこに含まれる諸現実的実質間の相互抱握による調和的な統一は、当の結合体が命題を感じる(抱握する)ことによって導かれる、何らかの諸実質間の調和的な関係が、結合体に含まれる諸実質によって実現されることによって可能になっているということができるだろう。

 では具体的に、命題が諸実質をそこへと導くところの諸実質の関係とはどのようなものなのだろうか。第十五の説明の後半部分は、この問いへの答えを素描するものであるだろう。

(命題は)それが持つpotentialな関係(relatedness)を、諸永遠的客体が統一されたある一つの複合的な永遠的客体によって限定される(defined)。*2

命題が導くところの諸実質の関係は、永遠的客体のネットワークによって差配されることがここでいわれている。諸現実的実質からなる結合体は、何らかの命題を感じることにより、永遠的客体によって制限されている諸現実的実質の諸関係を受け取り、いわばそれに関しての結合体と相成る。結合体において成り立っている諸現実的実質は、それらの間に起こっている相互的な抱握を、それらが結合体として抱握した命題へと、具体的に言えば命題が表現する限りでのpotentialityを持つ諸現実的実質へと向けて執り行うのだといえるかもしれない。

 このように考えると、第十六の説明で言われるような

諸多性*3は多くの実質から成り、その統一性は、それを構成するすべての実質が各々 、他の実質が満足させない少なくとも一つの条件を満足させるという事実によって構成されるということ。

 という主張も理解できるように思われる。結合体を形成する諸現実的実質は、その機能、その抱握、その組成からして明らかに相互に区別されるだろう。そのような状態において統一が可能になるのは、先述した命題の機能によって、具体的に言えば命題が当の結合体に抱握されることによって、結合体を成す諸実質の間に、いわばその命題への共通した志向性ともいわれ得るものが獲得されるためであるということができるだろう。

 命題という概念についてはまだまだ錯雑としたままであり、以降注視と推敲が必要となり続けるであろうが、とりあえず単なる現実的実質の統一性と、結合体における統一性を区別する際に、命題が役立つであろうことをみた。ここで少しまとめよう。

前者、つまり単なる現実的実質においては、その合生の過程の中で関連した諸現実的実質がその当の実質の内に包含され、またその中で解釈されるという意味合いでの統一であった。

他面後者、つまり結合体においては、それを形成する諸実質は互いに抱握作用やその組成を異にしており、またその機能も相異なるが、それぞれの相互関係、相互の抱握には同一の命題に向けての外的な志向性というようなものが見て取れた。結合体における統一とは、そのような命題に適応(調和)するように構成される*4ような、外的なものを目指す機能としての統一性であるといえるだろう。

 次回は、また統一性についてなのですが、「感じられたものとしての統一性」としての「コントラスト」という概念に注目して命題概念やその他もろもろをブラッシュアップしたいと思います。

それでは。

*1:『過程と実在』において、あるいはホワイトヘッドの現実観において、「命題とは何か」という問いはもしかしたら最重要かもしれない。少なくともそれは、単に言語的なものでも論理的なものでもないことは確かである。もっと拡張された意義を持たせる為に、目下私は「情報」のようなものをイメージする。

*2:拙訳

*3:私はこれを結合体と読みかえて差し支えないと考える

*4:無論この調和に失敗することもあるだろうと思われる。しかしそれでも、他ならぬその命題を志向したうえで結合体を構成したというレベルでの統一はあるだろう。この辺は次回