マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ある契機の決断によって他の契機にとっての与件が供されること(追記1/30)

 今回は重要な箇所を長めに訳して、たしかに決断によって与件が供されるという事態についてホワイトヘッドが語っていることを確認する。

【ひとつの現実的存在を構成する四つの段階the four stages constitutive of an actual entityについて】それらは与件、過程、満足、決断と名付けられる。両端の段階the two terminal stagesは、定着したsettled現実世界から新しい現実的存在への移行transitionという意味における「生成becoming」に関連している。新しい現実的存在は、定着した現実世界が規定されているdefinedということに相対的である。しかし、そのような「規定definition」は、関連する諸存在【定着した現実世界のことか】に内在する要素として見つからなければならない。そのような、あるひとつの現実的存在が「見つける」「定着した現実世界」が、その存在にとっての与件datumである。この与件は、関連する永遠的諸客体によって供される、「定着した」世界の限定されたパースペクティブlimited perspectiveと見做されるべきである。この与件は、定着した世界によって決断されている。そしてこの与件は、定着した現実世界を超え出る存在によって「抱握されるprehended」のである。与件は経験における客体的内容objective contentである。与件を供するproviding the datum決断とは、自己限定された欲求の移送transference of self-limited appetitionである。つまり定着した世界は、そこに含まれる多くの現実性many actualitiesが両立的にcompatibly感じられうるような「リアルな可能性real potentiality」を供する。そして、新しい合生はこの与件から始まるのだ。パースペクティブは、両立不可能な諸々の事柄を除去することelimination of imcomapatibilitiesによって供される。最終段階である「決断」は、個体としての満足を獲得した現実的存在が、その存在自身を超えた未来にとっての定着に対していかに決定的な条件determinate conditionを加えるか、ということである。したがって「与件」は「受容されたreceived決断」であり、「決断」は「伝送されたtransmitted決断」である。このふたつの決断の間に、「過程」と「満足」のふたつの段階がある。与件は、最終的満足に関しては不確定indeterminateである。「過程」は感じの要素を追加していく段階である。それによって諸々の不確定性は、個体的な現実的存在の現実的な統一unityを獲得する、決定的な結合determinate linkagesのもとに解消される。

 重要な点は、ホワイトヘッドがこの四段階をひとつの契機の「合生の」段階ではなく、あくまでもその契機を「構成するconstitutive」段階として位置づけていることは肝要だ。このことによって、(この論点は繰り返すようだが)決断が必ずしも合生段階に位置づけられることはなく、それでいてなお、決断はその契機を構成してもいるといえる。決断は契機の移行過程に位置づけられ、それによってその契機を構成するというのが私の解釈だ。

 さて、ある契機はそれに先行する諸契機、つまりここで言われているところの定着した現実世界から創始する。つまり合生過程を始める。その最初の段階が与件である。この与件とは何か。ここで与件は、単に定着した先行する諸契機(事実)ではない。そうではなく、与件となるのはその諸契機についてのある限られたパースペクティブである。そしてそのパースペクティブは、何らかの永遠的客体によって供される事が言われている。

 この永遠的客体とは何か、ということが次の問題だ。その永遠的客体が定着した現実世界を規定しているものとして、その世界の内部に見つけられると言われていることはヒントになるだろう。「規定」とは、第20の説明に明らかなように*1、ある契機が選択された永遠的諸客体を例示するillustrateことを指し、この場合その契機は諸々の永遠的客体に規定されていると言われる。例えば私があるとき手に持っているリンゴをかじるという契機は、リンゴの赤さや味、諸々の質に規定されている。

 しかし、先行する契機の規定性に寄与する「いかなる」永遠的客体も、後続する契機に与えられるのだろうかという疑問が湧く。つまり先行する諸々の契機のパースペクティブは無数に考えられるが、それらすべてが与件として与えられ、新しい合生の中でその中からの自由な選択がなされるだけなのだろうか。そうではないと私は考える。反対に、パースペクティブが限定されたlimitedものである限り、決断によって供される与件としての永遠的客体は、一定の秩序を備えたものであると考えている。じっさいにホワイトヘッドは、決断はその限定づけlimitationという機能を通じて、ある永遠的客体のみを先行する契機のパースペクティブとして後続する契機に伝送し、その他の永遠的客体を追放relegationしているのだと主張している*2

 よって問題は、決断に伴う限定づけによって新たな契機に与えられる永遠的客体の範囲をいかにして策定することができるか、である。これに関して重要な概念はふたつある。それは「関連性relevance」と「両立(不)可能性」である。ホワイトヘッドは客体化についての文脈で以下のように述べている。

【新しい契機にとっての】与件における全ての個別的な客体化は固有のパースペクティブを持っている。それは、他の【契機のこの与件への】諸客体化と両立可能であるような【この与件に客体化された先行する契機に】固有の関連性を伴った固有の永遠的諸客体によって規定される。*3

ここでは、先行する契機のパースペクティブの規定されるプロセスが語られている。まず契機は、それに固有の関連する永遠的客体の領野を持っている。そしてその領野を持っている諸々の契機は、客体化される際に相互にその領野を制限し合う。このことによって、先行する契機がいかにして客体化されるか、つまりどのような永遠的客体を自身のパースペクティブとして新しい契機に与えるかが決定される。

 ここで意外にも、決断と客体化が必ずしも同一視出来ないことが見えてくる。というのも客体化の様態、つまり先行する契機のパースペクティブが十分に決定されるには、ある他の契機のパースペクティブとの両立可能性を診断する必要があるように思われるからだ。しかし決断はあくまでもひとつの契機における段階でしかない。与件の決定は、ある単一の契機の決断だけではなし得ない。そこに共在する他の契機との相互作用を加味しなければならないのだ。

 したがって私は、ある契機における決断を、他の契機の与件として受容されうる自身の可能的なパースペクティブを限定する作用として仮説的に定義したい。このことによって、ひとつの契機が新しい契機の与件と成るまでのプロセスは(1)ある契機の決断によって、その契機に固有の関連性を持った諸永遠的客体が策定され、(2)さらに他の諸々の契機がその決断を通して策定した永遠的諸客体との両立可能性が診断されることによって、その契機の実際のパースペクティブが決定される、という二段構えとして理解できるはずだ。このことは先に見た「受容された」決断と「伝送された」決断という区別にも対応すると思っている。決断によって可能的なパースペクティブを形成する諸永遠的客体は新しい契機に伝送されるが、それが実際に与件として受容されるとは限らない(他の契機の客体化と両立不可能かもしれない)といえそうだからだ。

 次回以降はまずこの仮説に無理がないか、「関連性」をテーマに少しずつまとめていきたい。*4このことには今日触れずにいた奇妙な一文「決断とは、自己限定された欲求の移送transference of self-limited appetitionである。」というところも多分関係しているはず。

(以下,1/30の追記)

 決断と客体化の関係はもう少し慎重にやる必要があると思うので、この仮説をどうこうするのは後回しにして、暫くテクストを読み直す時間を取りたいと思います。次はそもそも客体化とはなんぞというところから。

*1:PR25

*2:PR164

*3:PR154

*4:両立不可能性については重要なので後回し