マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

決断概念について~決断は合生過程には位置づけられないこと~

 ホワイトヘッド研究において、決断概念がしっかりと定式化されることは少ない。他の研究者がどのようにその概念を扱っており、また扱っていないかの比較検討は必要な作業だけれど、このブログではまず内容的な部分を明らかにする方を優先する。さしあたってまず飯盛による決断概念の定式化を確認し、それに批判を加えることを通じて私の解釈の大枠を提示することにする。

 飯盛は、以下のように決断概念を定義している。

 

合生過程において、現実的存在が自らのあり方にかんしてなす主体的な働き。ホワイトヘッドは決断を、「切断」(cutting off)という語源的な意味でもちいている。合生過程に内在してくる過去の現実的存在は、この過程のうちになんらかの様態において包含されうる。だがじっさいには、ひとつのあり方においてこの過程のうちに包含され、それ以外の可能性は断ち切られる。これが決断である。現実的存在は、与件に対する決断をとおして、自己自身の確定したあり方をつくりあげていく。*1

 

まず注意すべきなのは、飯盛が決断を合生過程の一つの段階として位置づけていることである。合生というのは、あるひとつの契機が生成する過程を指す。つまり先立つ諸々の契機や諸々の永遠的客体を抱握prehendすることを通して、その抱握主体であるところの新しい契機が「何であるか」が決定される過程である。例えばコーヒーの香りを楽しむという契機は、それに先立つ諸々の実質(私がコーヒーを淹れるという契機や、その他私の身体器官を含む周辺環境を形成する数多の契機等々)を抱握した結果である。

 重要な点は、先立つ契機が後続する契機に「そのまま」内在するのではないという点である。これはホワイトヘッドが知覚を契機間の「抽象」として捉えたこと*2と関連している。先刻私が淹れたコーヒーは確かに、コーヒーの香りを楽しむという契機に抱握され、内在している。しかし先行する契機が後続する契機に単に反復されるのであれば、両者は同一の契機であると考えられる他ない。したがってここで起こっているのは先立つ契機の反復ではなく、先立つ契機のもつ何らかの性質の抽象である。この例で言えば、コーヒーの持つ味という性質は明らかに抽象されている。端的に言えば、私が淹れたコーヒーという実質は明らかに味を持っているが、後続する契機においてそれは実現されていない。私はコーヒーの苦味を舌で感じ取ることなく、鼻でその香りを楽しむことができるからだ。

 このことを飯盛の口吻に合うように説明しよう。飯盛のいう「合生過程に内在してくる過去の現実的存在」とは、ここでは私が淹れたコーヒーという契機である。私が淹れたコーヒーは、後に私によって賞味されることも、嗅がれることも可能だし、私がカップを落として床のシミになれ果てることも可能である。だからその契機は、後続する契機に「なんらかの様態において包含されうる」。飯盛のいう様態、つまりいかなる意味で先行する実質が後続する実質を構成するかには、非常に多くの可能性が認められる。しかしながら、「じっさいには、ひとつのあり方においてこの過程のうちに包含され、それ以外の可能性は断ち切られる」。というのは、ここで検討している諸々の可能性は、一つの契機に同時に実現されることはないからだ。事実としてそのコーヒーの匂いが私によって享受されたのであればコーヒーは床にこぼされたのではないし、また味わわれたのでもない。ただしコーヒーを飲み、またその時鼻腔に抜ける香りを味わうという契機は可能である。しかしこの契機は、これまで検討した味だけを明示的に味わう契機と、匂いだけを明示的に享受する契機とは区別されると考えて差し支えないだろう。

 飯盛の定式化において重要であろうことには、このような可能性の切断を行っている主体が、合生する契機そのものであるという点であろう。このことから以下のことが帰結する。先行する契機を後続する契機は不可避的に抱握しなければならず、前者は後者に「何らかの意味で」内在するのであるが、この意味は先行する諸契機によって決定されたりしない。先行する契機が後続する契機で発揮する機能やそこで持ちうる価値の可能性は、他ならぬ後続する契機によって、内的に選択されるのであり、先行する契機によって制限されるのではない、というのが飯盛の解釈であるといえよう。

 この定式化の一番の問題点は、決断はそもそも合生過程に位置づけられるものではないという点である。『過程と実在』第六章第三節における決断概念の位置づけによれば、*3決断は単一の契機の合生ではなく、先行する諸々の契機からある契機への「移行transition」に関わるとされているのだ。ここでは、あるひとつの契機における決断は、満足という段階の更に後ろの段階として説明されている。しかし満足という段階は、合生過程の終了を意味するものとしてホワイトヘッドによって記述されている。これは第一章第二節における25番目の説明*4に明らかである。満足によって、その契機が「何であるのか」という問題は解決される。それが様々な要素をどのように抱握し統合したのか、その結果どのような個別的事実が生じたのかは、決断を待つまでもなく満足の段階で決定されるのである。したがって飯盛の説明は、満足と決断を取り違えたか、あるいは決断を満足の前の段階に誤って位置づけていると考えられる。

 では決断が合生ではなく移行に関わるとはいかなる意味であるのか。具体的な考察は次回以降にするが、ホワイトヘッドの以下の区別は、合生と移行の区別を考える際に有用だろう。ホワイトヘッドは、第一章第二節における8番目の説明*5の中で、あるひとつの契機に対する説明には二つあることを示している。そのひとつが「他の現実的諸存在への客体化における可能性へと分析する」ものであり、他方が「それ自身の生成を構成していく過程へと分析する」ものである。この後者に合生が当てはまることは明らかである。合生は、様々な与件の諸抱握が相互に作用し統合される過程に他ならない。では前者を、移行の説明として解釈できるのではなかろうか。

 重要なのは、「客体化における可能性」という語が選択されている点である。これは先に飯盛の解釈を観た際には「様態」と呼ばれていたものに該当するだろう。ある契機が、いかなる意味において他の契機を構成しうるかという可能性が、そこでは問われていた。しかし飯盛が、この先立つ契機における可能性が後続する契機によって断ち切られることを指して決断であると主張していたのとは対照的に、私は先立つ契機がもつ固有の可能性を後続する契機に供する機能として決断を解釈する。この仮説に基づけば、飯盛の解釈からの帰結のように、後続する実質は外的には自由に先行する契機を客体化させるのではなく、寧ろ反対に、先行する契機が供する可能性が許す限りにおいてのみ客体化が起こると主張することができるであろう。私の見立てでは、ある契機の決断はその契機自身の形成には携わらず、寧ろその契機の他の契機の内部における可能性を制限している。この意味で、決断は契機間の移行に関連するのである。

 次回はこの移行について、決断が他の契機に対する与件を形成しているという主張から解釈していこうと思います。

*1:『連続と断絶』飯盛元章著、人文書院、2020年、289-290頁

*2:PR116

*3:PR149-150

*4:PR25-26

*5:PR23