マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

『過程と実在』研究の展望~「決断」概念に注目してみる~

 もう四年くらいホワイトヘッドを読んでいるけれども、よくわからない。わかったことといえば、世界が複雑だということくらいだと思う。しかしながら、そのよくわからないものを修論で扱わざるをえないので、とりあえずの方針をまとめておこうと思う。

 まず、『過程と実在』における根本的な概念としてのactual entityについて、これまでの解釈を改め(?)よう。このブログでも度々誤解を生むような書き方をしていると思うけれども*1、actual entityは語の見かけに反して非常に小さな存在の単位であるということに注意すべきな気がする。度々ホワイトヘッドがいうように、actual occasionのほうが語としては適切でさえあるように思われる。したがってこのブログではこれからは単に「契機」と呼ぶことにする。

 例えば「リンゴがある」という契機は、二度と繰り返されない刹那的な契機であり、他ならぬ同一のリンゴが存続した結果としての、時間的に後続する「リンゴがある」という契機とは区別される。つまり、「リンゴがある」という契機は、「ある特定のリンゴが、ある時、ここにある」という非常に些末な出来事である。したがってactual entity は、時間を通して存続するような存在者では決してない。*2

 ホワイトヘッドが提案する宇宙観は、このようなバラバラの小さな契機をprehensionした結果として新たな契機が生成し、その契機がまたprehensionされることによって別の契機が生まれる、というような連鎖によって現実世界が進行していくというものであるとひとまず言える。このprehensionというのがとんでもなく厄介な概念なのだけれど、ここではとりあえず「先行する契機を後続する契機の構成要素にする作用」とでもしておく。後続する契機Xは、先行する契機A,B,C...etcをprehensionすることでそれらを何らかの意味でX自身を構成するものとして含んでいる。一つの契機における多数の契機の共在性togethernessは、ホワイトヘッド形而上学において根本的なアイデアである。

 では「いかなる意味において」、契機は後続する契機にとっての構成要素となるのか。この問に答えるためには、「客体化objectification」という概念を解明しなければならない。契機Xが契機Aをprehensionする際、契機Aは契機Xに客体化されるともいわれる。先に指摘したように、契機Aは契機Xの内容を構成する上で何かしらの役割を果たす。そしてこの役割がいかなるものであるかを決定するのが、永遠的客体eternal objectと呼ばれる形相である。例えばある特定の瞬間に私の目の前にあるコーヒーは、それに後続するコーヒーを飲むという契機に客体化されている。具体的には、コーヒーは後者の契機において私に感じられている「味」を構成している。つまりコーヒーは、コーヒーを飲むという契機に、その味という永遠的客体を介してvia客体化されている。しかもこれは単なるコーヒーの味ではなく、他でもない、その時私の目の前にあった特定のコーヒーが持つ味なのである。故に客体化されているのはあくまでも契機であって、永遠的客体はその客体化の様態を説明するに過ぎない。

 ここで検討した事例は非常に日常的であり、秩序立ってさえいるように感じられる。少なくともある特定の瞬間に私の目の前にあるコーヒーが次の瞬間に消失したり、私がコーヒーカップに齧りついたりするような契機よりは遥かにリアリティがある*3。しかしながらホワイトヘッドの体系では、このような契機が生成することは少なくとも可能ではあるだろう。ホワイトヘッドの体系において不可能であるのは、先行する契機が後続する事実にとって純然たる無であることである。というのも、先行する契機は後続する契機に不可避的にprehensionされるからである*4。しかしこのことは、prehensionされてさえいれば、古い契機は新しい契機の中でいかなる意味も持ちうるとも解釈できる。例えばホワイトヘッドは、エディンバラ城の城石は、その城が跡形もなく消え、単なる石ころになれ果ててもなおその石はエディンバラ城の城石であり続けると主張する。つまりその石はエディンバラ城の石でなくなったのではない。寧ろエディンバラ城の石がその絶えざる客体化の中で新しい性質(永遠的客体)を帯びたり失ったりしているというのである。先に上げたような非日常的で無秩序な契機も、この例と類比的に考える事ができると思う。つまりそのような契機も先立つ契機を何らかの意味で受け入れており、その受け入れ方が、つまり先立つ契機の客体化の様態が奇特であるというだけなのだ、と。

 ホワイトヘッドはしきりに、現実世界の進行における「新しさnovelty」を強調する。それはある契機が別の契機のうちで、これまでとは全く異なる実現のされ方をすることであり、それは永遠的客体の冒険adventureであるとさえいう。故に以上のような無秩序もホワイトヘッドにとっては歓迎されることなのかもしれない。しかし彼は、宇宙に内在する秩序orderについても多く語っている。しかもその秩序は、新しさと対立するようなものではなく寧ろ、新しさによって形作られるような秩序であるようなのだ。私の現在の目的は、ホワイトヘッドにおける形而上学的秩序を明確にすることにある。

 この目的を達成するにあたり私が注目するのは、actual entityによる「決断decision」という概念だ。決断は少なくとも私にとってはホワイトヘッド哲学における最重要概念である*5が、これまでこの概念にスポットを当てた研究は、少なくとも私の知る限りでは全くない。*6私の見立てでは、契機としての生成を終えたactual entityは、決断という作用によってその契機の未来において、つまり新たな契機への客体化の際に能動的に働きかけているのではないかと考えている。この決断によって、当の契機の未来における可能性は純然たる自由ではなく、制限されたものになり、このことが宇宙における秩序を下支えしているのではなかろうか、というのが目下の仮説である。

 今日はとりあえず決断に注目しまっせということを宣言したかっただけなのでここまで。胡散臭い感じもしますがとりあえず唾をつけとくことは大事な気がしたので。

 

 

 

 

*1:正直覚えていない。

*2:寧ろ存続物enduring objectは、バラバラの契機の連なりであり。それらの契機間である特質が継承される事によって可能となる事態であるとされる。また、これはある種の秩序関係として示されるので今後詳しく見ていく。

*3:realityとは区別される「リアリティ」とは何かという問題は重要な気がする。

*4:ホワイトヘッドはこのことを相対性原理と呼ぶ。

*5:「【形而上学的な】説明はすべて、現実の事物による決断と、それが持つ【因果的】効果efficacyとに言及している。」PR[46]、【】内引用者

*6:このことはホワイトヘッドによる決断概念の不明瞭さに起因するのだと思う。これについては次回。