相克の家

学部生のメモです。穏やかに、、、

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第6回〉1-1-5

言語表現の欠陥と命題

 第五節の主題は、言語という表現*1について、特にその形而上学における「道具」としての不完全性であると解されるだろう。ホワイトヘッドは、「経験された事実についての人類の一般的合意が、言語に最もよく表現されること」を認めたうえで、それが形而上学に要求されるより広い一般性を「十全に」表現することは不可能だと主張する。

 しかし、「形而上学の一つの実際上の目的は、命題の的確な分析である」という主張にも明らかなように、ホワイトヘッドが言語や命題といったものの有効性を棄却しているのではないことは留意しておく必要があるだろう。むしろホワイトヘッドの哲学において命題というものは、非常に重要な立ち位置を獲得しているように私には思われる。*2言語表現(verbal phrase)が問題となるのは、それがホワイトヘッドの言うところの命題を十全に表現することができていないという点であろう。*3そしてその理由として、命題というものがそれとして完結する自体的事実では決してなく、それ以外のものとの関りから切り離せないものであることが挙げられている。

肝心なことは、すべての命題は、ある一般的で体系的な形而上学的性格を展示している宇宙に関わっている(refer to)、ということである。こうした背景を度外視しては、命題を形づくっていくバラバラの実質と、全体としての命題は、決定的な性格に欠けるのである。何ごとも限定づけられ(defined)てはいない。なぜならすべての限定づけられた実質は、それに必須な地位を供給するために、体系的宇宙を必要とするからである。 

 命題の「決定的な性格」 は、それが関連する限りでの宇宙全体を表現しうるという点に尽きる。その機能を言語表現によって閉じ込めてしまうこと、つまりそこで命題を構成する諸実質をそれぞれ独立した実質として認めてしまうことをこそ、ホワイトヘッドは批判しているのだろう。そしてそれに関してホワイトヘッドが挙げる例は、語用論的な雰囲気をまとったものとなっている。

(「ソクラテスは可死的である」という命題について)例えば、ある文で哲学者に言及している「ソクラテス」という語は、別の文で同一物に言及する「ソクラテス」という語よりも、一層密接に限定された背景を前提とするある実質を意味するかもしれない。「可死的」という語も類似の可能性を与える。

  つまり言語で表現されたもののみで命題の完全な表明を試みることは、命題が本来持つであろう「広さ」を棄却してしまうということだろう。この意味において、言語はそれが単純な構造の中に持ちうる複雑で多様な意味作用の「省略以外のものでありえず、直接的経験との関連においてその意味を理解するためには、想像力の飛躍を必要とする」のである。

 我々がそこから出発するしかないこの言語表現がそれ自体では曖昧であることを受け入れることは、ここまで再三確認してきたホワイトヘッドのプラグマティックな態度としても理解できる。この節においてホワイトヘッドは、言語表現を一般的真理への「近似」に向かって磨き上げていくことの過程で必要となるものとして、明示的に「プラグマティックなテスト」について言及している。

 

 

*1:ホワイトヘッドのいう言語表現が、果たして自然言語のみを指すか、あるいは人工言語、ロジックの言語も指示するかは疑問である。本書には所謂論理記号は出現せず、先述したような自然言語で書かれた諸命題、殊に主語述語のシンプルな関係を持った命題が分析されるのみである。

*2:実際本書においても、9章をまるっと命題の分析に費やしている。

*3:言語と命題は、ホワイトヘッドにおいて区別されているという言い方も可能だろう

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第5回〉1-1-4

 この節は主に、科学と哲学との関係、あるいは際について語られる個所となっている。しかしながら私としては、ここにおけるホワイトヘッドの主張には当初少しビビってしまった。それは「そんなことまで言えてしまってよいのか?」といったたぐいの疑念であった。

 本節は短いし、その趣旨も明快ではある。科学(ホワイトヘッドは「特殊科学(special science)」と呼ぶ)は「事実の一つの類」のみを追求するが、哲学にいたってはそうではないこと。つまりその事実を説明する類、範疇がより大きな一般性に向かって「発展」していくことがまず言われる。後者の見解に関しては、これまでも言われてきたような形而上学的構図の改変可能性が、再び確認されたと解して差し支えないだろう。しかし前者の主張は、一概にそうとも言い切れないような気がする。もし仮に、このホワイトヘッドの批判が、科学などの哲学とは区別される諸学問が、それぞれ単一の対象を、単一の体系の中で捉えていることに向けられているのであれば、それは哲学に向けられてもおかしくないだろう。哲学は現実世界という対象を、形而上学的構図という体系によって説明しようと試みるものであるからだ。

 たしかにその体系は、ホワイトヘッドによって絶えず現実世界との適合可能性によって問い直されるから、それはもはや単一の独断的な体系ではなくなっていくこと、そこにこそ科学との根本的な差異があるのだと捉えることもできよう。しかし私には、むしろ科学の方に絶えず自身の体系を問い直す性格があるように感じた。ホワイトヘッドの記述に対する違和感は、端的に言えばここにある。

 どうやらその違和感は、私の「科学的手法をポパー反証主義的科学観と半ば同一視してしまう傾向」に起因することが発覚した。ポパー反証主義を打ち出した『探求の論理』(Logik der Vorschung)を著したのは1934年であり、『過程と実在』から16年を待たねばならない。したがってホワイトヘッドポパーの主張を確認していないし、科学がいわば反証可能性をその本質として備えるという発想に乏しかった風土に身を置いていたのではなかろうか。

 ポパー反証主義を唱えるようになったのは、どうやら精神分析という体系、殊にアドラー精神分析が、「何でも説明できる」ことへの違和感であったらしい。*1この違和感は、ホワイトヘッドの先の科学への批判と近いものを感じる。*2様々な事実が、その学問の提出する「一つの類」に余すところなく回収されてしまうことは、むしろ現実世界をその体系としてしか見ていないこと、つまり「半面だけの真理」を形成しているに過ぎないことをホワイトヘッドは強調する。哲学の使命は、そのような一面的で特殊な狭い真理に留まらず、それと不可避的に関連付けられる「より広いもろもろの一般性」を追求することであることが繰り返し述べられている。

 今回は短いがここまでです。それでは。

 

 

 

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第4回〉1-1-3

 第三節でも、哲学という手法そのものについてのホワイトヘッド省察が続々とくわえられていく。第二節でも見たように、哲学的な学説は「テスト」、つまり現実との適応可能性の審査によって順次改訂され得るものであり、そこにおいてこそ一般的真理体系としての哲学が「進歩」するのであることがここでも言われる。

 このような理想のもとで見られる哲学は、その「誇張」によって誤謬に導かれてきたのだというホワイトヘッドの主張は明確である。哲学はその本性として一般化、範疇化を目指す。しかしその中で、端的に言えば見逃している要素があるという可能性に対して自省的でないのであればその現実世界の範疇化は「誇張」的であるとも言えよう。しかしおそらくここでホワイトヘッドが言っているのは、現実に対する概念による完全な定式化をしろというのではなく、つまり概念的なものでは現実を決して取りつくせないのだというのではなく、その概念化の可能性が、独断的に制限されてはならないという主張であろうと思う。現実世界に「含意されている抽象の度合い」は本来は多様なものであってしかるべきであるのだが、それが独断的な形式化によってある一つの範疇と半ば同一視されてしまうこと、もはやその範疇の方が具体的に真なるものと前提されてしまうことをこそ、ホワイトヘッドは危惧しているように思われる。ホワイトヘッドのいう「具体者取り違え」の誤謬は以上のようなものと考えられる。*1本性的に具体的なものとは、それ自体として様々な抽象可能性をもった総体、つまり現実世界であって、それらがいかにして記述、定式化され得るかのテストに、随時かけられて行かねばならないということが強調される。

 以上のような、つまり抽象可能性の総体であるはずの現実がある単一の定式化によって具体者と見做されてしまうことが哲学における第一の誇張であった。第二の誇張は、ホワイトヘッドによれば「論理的手続きの誤った評価」であると言われる。ホワイトヘッドは、哲学の方法が「明晰で判明で確実である前提を独断的に明示し、それらの前提の上に、演繹的な思想体系を構築すること」に拘泥し、本来「目標」であるところの「一般性の究極な表現」をある種の「出発点」としてしまっていると批判する。

 ホワイトヘッドはこのような文脈で、背理法(ex absurdo)に対して疑義を投げかける。*2ホワイトヘッドが指摘する問題点は、矛盾という結論からは本来「推論に含まれた少なくとも一つの前提が間違っている」ということのみであり、それ以上でも以下でもないのであるが、背理法はその矛盾から、ある確定的な一つの前提が間違っていると独断的に結論付けていることであるようだ。つまり背理法には、それが証明したい命題、例えばPを取り出したいがために、not Pから矛盾を導きだすわけだが、その矛盾の要因がほかならぬnot Pであるという必然性は決してないことをホワイトヘッドは主張しているように思われる。そのような計算の過程において、なにかしらの処理が確実にあり、その計算がnot Pだけから成り立つのでない限り、*3矛盾の要因が何か他のものである可能性を、背理法は無視しているというのである。つまり背理法は、矛盾を引き起こすような「病的な前提の所在が即座に突き止められると、問い進めもしないで軽率にも仮定」しているという。*4

 これより後の第三節の記述は、ホワイトヘッドにおいて哲学が、いかにして進行するべきである捉えられているかを確認できる内容となっているように思う。特に、以下の主張は象徴的である。

哲学は、進歩の各段階で明確に述べられた範疇の漸次的仕上げが、その固有の目標とみなされるまでは、その固有の地位を回復しないであろう。相互に不整合な競合する構図があり、それぞれがそれ自身の功罪を伴っている、ということもあろう。その場合には、もろもろの相違点を調整することが、研究の眼目であろう。形而上学的範疇は、自明的なものの独断的陳述ではない。それは究極的な一般性の、試論的な定式化なのである。

 いかなる形而上学的記述も、それはそれ自体として完結した構図ではなく、それらは様々な他なるものとの関係において検証されたり、あるいは反証されたりしながら、まさに「漸次的に」究極的な一般性を希求するものであるというホワイトヘッドの主眼がここにみてとれる。

 形而上学的構図は「定式化されていない条件、例外、制限付きで、そしてより一般的観念によって新しく解釈されるという条件付きで、真である」ということ、そしてその真偽の暫定的な結論は、「適応すべき状況と照合」することによって確かめられ続けるべきであるという主張は、これを裏付けかつ一貫しているといえよう。*5

 形而上学的構図はそれとして完璧ではなく、常に更新される状況に即した検証によって、その本質が瓦解する可能性、「根本的な再構成」が要請される場合さえあり得る。しかしそのような柔軟性こそが、形而上学的構図がrobusutnessとしての強度、つまり普遍的妥当性を持ちうる可能性を何よりも示しているのだといえるように、私には思われる。

 

*1:『科学と近代世界』の中で多用されるホワイトヘッドの言葉遣い。そこでは主に機械論的宇宙論、還元主義が批判されている。この本はホワイトヘッド研究としては外せないと思われるし、この概念もかなり重要だからもっと詳述したいが、現在私の手元には一度通読した際のメモ程度しか残されていないので追って参照、追記したいと思う。

*2:もはや恒例の、序文における「否認されるべき思考習慣のリスト」にも、しっかり「背理法による独断的演繹」が名を連ねている。

*3:not P→というだけの推論があるならば、それは前提と同一視できるであろうということ?

*4:ここにあるように思われる問題点は、背理法に限ったものではないかもしれない。たとえばA→Bを推論によって、たとえばAを前提したうえで証明しても、その推論の過程で生じた別の要因によってBが導出されていて、かつその要素がAに原因するのではない場合などは十分考えられるように私には思われる。

*5:C.S.パースや、C.I.ルイスの系列のプラグマティズムとの親和性を感じた。ホワイトヘッド自身はジェームズ、デューイに恩恵を感じていると主張するが、そのあたりのプラグマティズムとの関連は、慎重に確認したほうが良いだろう。往々にして、哲学者同士の類似性や影響関係を見いだすことは恣意的になりがちであることは(特に私のような人間の場合は)注意するべきだと思った。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第3回〉1-1-2

 哲学者は、前回見たような思弁的構図、つまり十全で不可避的に我々の経験に例示されるところの形而上学的原理の究極的な定式化を「決して望むことはできない」のだという主張から、第二節は開始される。そしてその不可能性の原因としてホワイトヘッドは「洞察の弱さと言語の欠陥」(Weakness of insight and deficiencies of language)を挙げ、この説では主にこれらの難点が分析されているといえる。今回は、殊に詳述されている前者についてまとめようと思う。

*1

 まず大きな前提として、いかなる意味においても我々に対して与えられているものは「われわれ自身を含む現実世界」であり、他ならぬその与件を経験するという事実の分析が、いかなる思想にとって根本的であるということが確認される。哲学もそのような「経験的側面」を持つことは決して否定できない。

 しかしながら経験、あるいは観察は、それのみによって完結した分析を世界に対して与えることは不可能であることがホワイトヘッドによって言われる。

われわれは象を見ることもあれば見ないこともある。つまり象は現前する時に限り、観察されるのである。観察という機能は、それによって得られる対象は現前している時に限り重要性を持つが、それは常に現前しているとは限らないという事実から切り離すことはできない。*2

 形而上学的な原理は、その必然性、十全性からして、ここでいわれているような象が現前していないときにも、(象を見ていない経験をしているときにも)つまり観察されていない現実世界にも不可避的に例示されねばならない。現実的な経験と可能的な経験が結び合わされるような原理でなくてはならない。ホワイトヘッドはベイコンの帰納法を「硬直した経験論」(rigid empiricism)と評し、それが問題含みなのは「整合性ならびに論理学の要請によって統制される自由な想像力の働き」を著しく欠くからだと主張した。

 確かに、真に帰納法を推し進めば、現前する対象のみを絶対化するような、絶対的対象の直接的な現前を信奉する実在論か、観察のみが対象を構成するという独断論的な観念論か、孤独な懐疑主義に陥るほかないように思われる。対してホワイトヘッドの取る策は、ここにおいてプラグマティックともいわれ得るものである。

発見の真実の方法は、飛行機の飛行のようなものである。それは特殊な観察の地盤から出発する。それは想像的一般化という希薄な空中を飛行する。そして合理的解釈によって強められ、改めて観察するため、再び着陸する。

  直接的観察のみに真実を求めるのではなく、むしろ可能的な観察との整合的な結びつきを統制された想像力において志向し続けること、そしてその合理的に形成された観念が、果たして現実に適応するものであるかの「テスト」(験証)を欠かさないことが、ここにおいて重要視されているように思う。そのような、直接的な契機を超えて観念を絶えず新たな契機に適用していくこと、そしてそれによってより一般的な観念を目指すことは、ホワイトヘッドによって「第一義的要請」と呼ばれた。そのような営みは総じて「ある制限された事実群に適応されている特殊な観念を、すべての事実に応用される類的観念を占うために利用する」ものであるだろう。

 そのような想像力に依る観念の絶え間ない構成において第二に要請されるのは「整合性と論理的完全性という二つの合理主義的理想の、不退転の追求」であるといわれる。前者の論理的完全性については、ホワイトヘッドは数学の役割を重視していて、数学において観念が相互に前提し合い、厳密な論理によって制御されていると評している。

 整合性については、それが合理主義における「健全さ」を保たせる役割があるとしたうえで、哲学史においてその様な整合性が常に保たれてきたわけではないと指摘する。鮮烈にも「論争者たちは、敵対者には整合性を要求しながら、己自身には免除するきらいがある。」という指摘まで行っているが、これは結構的を得ているように感じた。哲学に限った話ではないと思うが、論争というものはどうしても相手側を棄却することになるんだろうが、それは他でもない相手との整合性をこちら側が欠いていることの証左にもなろうし、その逆もそうなのではないだろうか。*3

 ホワイトヘッドによって不整合性は「無鉄砲に事実を否認すること」によって生じると言われている。しかしだからといって、整合性とはただあらゆるものをそのまま受容するだけの性質では決してないだろう。様々なものとの関係を完全に断ち切ることをしなくとも、それらとの秩序だった関係を持ったり、さらにその関係を新たなテストによって更新したりすることが考えられるべきであるように思う。合理主義における「健全さ」は、常に他なるものとの関係に開かれているという自覚、であり、それは独断論的になることへの予防線として考えられるだろう。

 しかし同時にこれが、形而上学的構図の究極的な定式化が望めないことを示してもいる。われわれは更新される現実との整合性に常に注意するために、想像的な観念の構成とテストを繰り返していかねばならない。そのような過程として、この現実を十全に解釈「しうる」体系があるのみなのであろう。

 この節は後半にスピノザの思想体系と有機体の哲学との類似点、相違点などが語られており、そこで主語述語形式への懐疑も少し触れられていて興味深いのだが、他の個所で詳述されるのでその時にまた参照したい。

 それでは。

 

  

*1:「言語の欠陥」は主に、主語述語関係による記述に対する疑義である。別の回に検討する。

*2:拙訳、facilityが「容易さ」と訳されていたけど「機能」のほうがいいかな、と 

*3:矛盾する立場、とか互いに包含することが不可能な立場というのはやはりあるのだろうが。ホワイトヘッドは矛盾について、単なる非論理性ではなくそれも不整合性を示すとしている。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第2回〉1-1-1

 今回から主文に入ります。頑張ります。

 とはいえ、どのように進めていこうか。この本は最も大きな区切りとして合計5部からなり、そこにそれぞれ含まれる章数は25、もっとも小さな区切りである節に関して言えば、合計155節ある。当初は章ごとに進めていこうと考えていた。内容としてまとまっているし、近視眼的になることを予防できると考えていたからだ。しかしこの本の場合、一章を一つのまとまった単位として精読することは様々な意味で難しい気がする。

 多分その印象は、ホワイトヘッドの体系構築の性格にある程度由来しているように思われる。ホワイトヘッドは、自身の重要なアイデアを小出しに、様々な文脈で、幾度となく提出する。しかしこれはホワイトヘッドの目的からすれば当然のような気もする。ホワイトヘッドは、経験され得るすべての宇宙に適う構図の提出を目指しているのであるから、その試みの中で出現する諸観念は、何か完結したものではありえず、常に他の観念との関係を持っていなければならないだろう。したがって、一つの章の中に留まってそれを整合的にまとめることは、章の中の内容がある程度豊富であるだけに却って危険であるだろう。*1しかしだからといって、155節を全部一息に読んで、それらを相互に結び合わせることなど到底できない。だから私は、いっそのこと最もミクロな手法を取り、なおかつマクロなものへの配慮を忘れないようにするという選択をしようと思う。つまり、一節ずつをなるだけ丁寧に考えてまとめ、そこにある観念がより広い場所で回収され得るということに注意しておこう。このブログにこうしてメモしておけば、回収されたときに参照したりもできて良いだろうし。*2

 私がこの言い訳がましい心構え的なことを長々と書いたのは、今回扱う「思弁哲学」と題された第一部第一章第一節において、似たようなことが言われていることに関連する。ホワイトヘッドはまず、思弁哲学という試みが「われわれの経験のすべての要素を解釈しうる一般的諸観念の、整合的で論理的で必然的な体系を組み立てようとする試み」であることを主張するが、今回の前書きは、この引用の「整合的」(coherent)*3という記述と深く関わる。

ここで使用されている「整合性」が意味するのは、構図を展開している基本的観念は、相互に前提し合っており、したがってそれらが孤立していては無意味だ、ということである。こうした要請は、これらの観念が相互に定義されうることを意味するのではない。その意味は、こうした一つの観念において定義できないものは、それが他の諸観念との関連から抽象されることはありえない、ということである。思弁哲学の理想は、その基本的諸観念が相互に抽象されることができないように思われるということである。換言すれば、いかなる実質(entity)も宇宙の体系からの完全な抽象において考察されえないということ、そしてこの真理を示すことが思弁哲学の仕事だということ、が前提されている。こうした性格が思弁哲学の整合性である。

  また、ホワイトヘッドがこのように語るところの思弁哲学的構図の整合性、つまりそれが他の諸事物との分かちがたい関連を持つという性質は、「十全(adequate)性」という性質へとただちに接続されている。その十全性は、ホワイトヘッドによれば一種の「必然性」(necessity)を持つものと言われる。つまりこの構図の整合性、十全性、必然性は三者ともに、この構図が、「(その構図を)例示するものとしての観察された経験の構造は、関連あるすべての経験が同一の構造をしめさなければならない」という一つの性格を示しており、それは「いっさいの経験を通してそれ自身のうちにそれ自身の普遍性の保証を有している」ということを明証している。

 端的に言えば、思弁哲学的構図の特性は、その不可避的な現実との結びつきであるといって差し支えないだろうと思う。それは相互に切り離すことのできない諸観念の可能的な総体であり、われわれの経験可能なものすべてに関わる。そこにおいて普遍性があるのはその関係である。

 このように理解すると、ホワイトヘッドは実にカント的な主張をしているように私には思われる。われわれの可能的経験すべてに不可避的に作用するものとしてカントが用いたのが純粋概念としてのカテゴリーであり、それがホワイトヘッドにとっては例の構図であると言われているように感じる。

 少なくとも現段階で、目的意識というか理念のようなものはある程度この二人に共通するのではないかと、私には思われる。*4結果的にカントとホワイトヘッドの思索が厳然と区別されることになろうとなるまいと、双方がわれわれに与えられるこの現実に対する普遍的理解を求めているということに変わりはないと思う。

 ホワイトヘッドは全体を通して確かにカントを批判的に乗り越えていこうとする傾向があるから、やはりそのカテゴリーなり思弁哲学的構図の内実になんらかの差異を彼自身はしっかり認めているのだろう。現段階で、この第2回までで確認できるホワイトヘッドの反カント的主張は、序文における「否認されるべき行きわたっている思考習慣」での言及のみである。そこでは「純粋に主観的経験からの理論的構成物としての、カントの客観的世界の学説」が批判されている。

 カントにおける「客観的世界」が何を示すか、ここで厳密に問うことは私には到底できないが、とりあえずカントの学説を、主観に与えられる現象から出発し、それを経験する主観構造の客観性を示し、それに基づいた世界像を理論的に設計する試みであったとみなすことが許されるのであれば、批判対象はカントの学説の全体、すくなくともその骨子であることになる。しかしこのような、経験から出発する現実像の設計をホワイトヘッドも目指しているのだということは先に確認した。すると興味深いのは、「純粋に主観的経験からの」という箇所である。ホワイトヘッドがカントに対する批判点として考えているのは、この「純粋な主観的経験」への疑義であるように、私には思われる。確かに「純粋性」は、ホワイトヘッドの考える有機体の哲学とは些か縁遠い言葉であるように感じる。前回も見たように、完全に孤立したものというのは、いかなるものであっても考えられない。すべては関係というネットワークに巻き込まれ、純粋無垢であることはできない。今回みた「整序性」は、観念においてもそれは諸観念や事物との関連から解放されることはないことを示していた。

 ホワイトヘッドが(カントに倣って)現に経験されるもの、経験され得るものから構図を練り上げようとしていることは間違いないだろう。しかしその経験の主体に対して、その主体が孤立しているものでは決してないことに、ホワイトヘッドは焦点を当てているのではなかろうか。私は、のちに言及される「改善された主観主義原理」が、この意味においてキーワードになるだろうと踏んでいる。それらは、ホワイトヘッドが序文でいうところの「カント以前の哲学者への還帰」として、デカルトやヒューム、ロックに対する詳細な分析をするにとどまらず、それを「修正」する形で有機体の哲学が標榜するのだと語られている。*5

 今回は思弁哲学の目的、理想としての構図設計について、それが持ち合わせる性質を見た。ホワイトヘッドとカントが理念を半ば共有するのではないかという議論は、ちょっと危険だった気もするが、追って改善できればと思います。

それでは。

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*1:単に章ごとの文量がまばらで、まとめるのが結構ハードだという情けないワケもある

*2:むろんその回収に気づかないというのもあり得るし、それもまた重要な事実であろう。

*3:私の好きなA.Sホーンビーの『新英英辞典』には、"able to stick together"と第一に示されている。なるほど、確かに整合性は常に何かと何かの、相互の接合可能性である。

*4:19,20世紀の英米系の哲学者は、カントの『純粋理性批判』を幼い時から読んでたりすること普通にあって、ホワイトヘッドもそうだったようだ。あとはC.Sパース。

*5:これに対する詳細な記述は機会を改めるが、構図の具体的な解説が行われる第一部第二章の「相対性原理」との重大な関連がホワイトヘッドによって指摘されている。個人的には、「相互作用的な認識」、「認識による主体と客体の相互変質」みたいなイメージを抱いたが、あくまでもイメージ。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第1回〉序文から

 この『過程と実在』という本が、「この講義は、デカルトに始まりヒュームで終わった哲学思想の局面へ回帰することに基づいている」という宣言から始まっているという点は、やはり注意すべきではないかと私は思う。ホワイトヘッド自身、序文において「17・18世紀の一群の哲学者ならびに科学者」からの逸脱を予測していたけれども、結局自分のやってることは「カント以前の思考様式への回帰」*1であった、と書いている。

 この序文において、ホワイトヘッドをして自身の「有機体の哲学」を「先取り」していたとさえ言わしめるのはジョン・ロックであった。特にホワイトヘッドは、『人間知性論』の第4巻でのロックの記述を評価している。

 ホワイトヘッドが特に脚注で言及していた箇所*2を読んでみると、なるほど確かに多くのモチーフをホワイトヘッドの思索と共有していることが見てとれた。

 私たちは、自然の秘密へ入ることを許されるどころではなく、秘密の最初の入口にさえ、およそ接近することがまずない。というのは、私たちは、自分の出会う実体を、それぞれ、そのあらゆる性質を自分自身のうちにもち、他の事物から独立する、それ自身で完璧な事物と考え慣れ、実体を囲繞する目に見えない〔微小な〕流体の作用を大部分は見逃すが、実体のうちに覚知されて、私たちが〔実体を〕区別する内属的標印すなわちそれによって実体を知り呼称する内属的標印とする性質のほとんどすべては、この流体の運動と作用に基づくのである。

 ロックは、ある種思考実験的に、何かあるものを真に独立させた場合、それはそれがそれであるところのものを完全に失うこと、それは本質的にその外部との関係に依存することを強調する。ロックの例は些か大胆ではあるが明快である。外的環境を取り去った生き物、例えば空気との関係を持たない生き物は本来の生き物たりえない、つまり生存が不可能になってしまうであろう。また関係が消失せずとも、それが変化することによって影響を被ることもロックは指摘する。例えばそれは太陽の位置の変化による地球の住人たる我々への多大な影響であり、それは我々の「内属的標印」、つまり内的な本質の維持にとって重大に差し障るだろう。*3

 我々に経験され得るあらゆるものが、それ自体として完結しているのでは決してなく、むしろそれらは相互に作用し合うことでそれらたりうるという主張を、ホワイトヘッドはロックから取り出しているように思われる。*4序文における「諸事物の本性のうちにある深みを探索する努力が、どんなに浅薄で脆弱で不完全であるか」というホワイトヘッドの言と、「事物にあると私たちに見える諸性質を事物が自分自身のうちに包含すると、そう私たちが考えるとき、私たちは全く道を外れている」というロックの言は、奇妙なほど合致している。

 しかしながらホワイトヘッドは、ロックの注釈として本書を書いているわけでは決してない。ホワイトヘッドはロックを含む一群の哲学者に対して「首尾一貫性に欠ける前提に悩まされていた」と評している。このあたり、つまりホワイトヘッドのいう首尾一貫性や整合性については第一部での宇宙論的構図の提出の際に言及されることと思うから機会を改めたいが、興味深いのはそれに続く以下の指摘である。

彼らないし彼らの後継者が、厳密に体系的たろうと努力してきたかぎり、彼らの思想においては、まさに有機体の哲学の基礎になっている要素が放棄されるのが通例であった。

 これをもって有機体の哲学が体系構築を放念しているとみなしてしまうのは私としては憚られる。まず創発する現実に対して厳密に閉じた体系を構築しうるかという点には直観的な疑問があるし、そもそも閉じた体系、開いた体系とはなにか、という問いは考える価値を持つと私は思う。ホワイトヘッド自身は、自分の構図に対し「事物の可能な相互関係を表現するのに十分な、すべての類的観念を展開」することに成功しているとの評価を下しているが、それが具体的にどのようにして、そしてどのような意味で成功しているのか、あるいはある意味では失敗しているのかは、これからどうにか見定めねばならないだろう。

 今回は序文から、特に有機体の哲学とロックの哲学の親和性をみた。序文は他にも取り出すべきアイデアが多分に含まれるだろうけれど、それは後から追っていく形でもとりあえずはいいかなと思っている。*5とりあえずホワイトヘッドが第一部で展開する宇宙論の構図が、一群の哲学者の経験についての論と突き合わせて編まれていることを確認することが今回のねらいであったということにします。

 次回は第一部第一章から、思弁哲学とその構図を巡る議論になるはず。それでは。

 

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*1:さりとて決して「カントは駄目」という主張が展開されているわけではない。「経験の基礎の呈示において一面的ではあるが、全体として彼らは爾後の哲学の発展を支配する一般的呈示を与えている」。

*2:4-6-11

*3:認識対象と認識主体との関係に依る相互の本質決定とか考えうるだろうか

*4:ホワイトヘッドにおいてはそのような相互におこる「流体の作用」が「抱握」という概念に置換され、それらの創発する過程として現実が捉えられている

*5:有機体の哲学において否認されるべき「思考習慣のリスト」とか挙げられていて興味深いが、これらは具体的に検討される際に参照したい。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第0回〉

 ホワイトヘッドという哲学者は、なかなか奇特な存在として見られがちであるというのが私の率直な所感である。*1彼の哲学史における立ち位置を正確に示すことは私の力量をゆうに超えてしまうからここでは避けるが、しかし単なる私の印象として、彼が一般的に主流とされる哲学者から何らかの意味で「逸脱」していると見なされているように思われることは、確かである。

 最近日本語訳が出たククリックの『アメリ哲学史』は、知見の浅い私にはかなり包括的かつ緻密な本であると思われるが、開始3ページでホワイトヘッドについての解説が本書の主眼からは外されることが宣言されている。もちろんこれにはホワイトヘッド自身がイギリス人であること、そしてなによりククリックが所謂「百科事典」を目指してこの本を書いてはいないことが要因としてあるだろうが、とにかくホワイトヘッドは、アメリカ哲学のメインストリームを形成する哲学者として強調されるべきだとは(少なくともククリックにとっては)考えられていない。

 そして、目下見受けられるホワイトヘッド研究は、そのような「逸脱」にこそ価値を認めるきらいがあるように私には思われる。具体的に言えば、論理実証主義にも、あるいはプラグマティズムにも与しない、新鮮かつ斬新な形而上学者としてのホワイトヘッドを描き出す試みとしての研究が、多くなされているように思われる。*2

 しかし私は、従来の哲学に対する魅力的なカウンターを求めてホワイトヘッドを読みたいわけではない。ただこの私に去来する世界、現実を整合的に概念的記述に落とし込む「可能性」を求めてホワイトヘッドを読みたいのである。その記述がもし成功した形で見つかるのであれば、それが従来の哲学者の思索の中にない斬新さをまったく持たない陳腐なものであったとしても私は構わないし、逆にその記述の成功のためにホワイトヘッドの寄与するところがどこにも見当たらないことが判明すれば、私はホワイトヘッドと決別することになるであろう。私はプロセス学派に属したいのではなく、目下ホワイトヘッドの思考が現実世界の概念的再構築の一助となり得ると考えているに過ぎない。*3

 ホワイトヘッドの思想は実に広い可能性に満ちていると思う。しかしだからといって、風呂敷を広げすぎて整理に全く失敗するのであればまさに本末転倒であろう。「哲学の主要な危険は、証拠を選択するにあたっての狭さである。」(p601)というホワイトヘッドの言葉は、まさにその通りだと思う。しかしこれはただただ広い可能性の海を志向せよというのではなくて、可能性の選択に際し、多様な現実との整合性を忘却してはならないという主張であることが注意されねばならないように思われる。むやみに雑多な可能性へと手を伸ばすことは、むしろ選択の幅を狭めることに他ならない。

 いきなり書き始めてしまったのでかなり乱雑だが、とりあえず私は落ち着いてホワイトヘッドを読むことをこのブログでの目的にしたい。ホワイトヘッドが本当に突拍子もないヤバいことを言っている可能性、全く新しいことをやっている可能性は確かにある。しかしそういった方向に飛びつく前に、彼がプラトンアリストテレスデカルトやヒュームといった伝統的な哲学者に対する緻密な読解から論を組み立てていることにまず注目して、そこから生じ得るより強度の高い現実性の理論について、目を向けていきたいと思う。*4

 次回はその観点から序文を読みたいと思います。それでは。

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*1:「ああホワイトヘッドねえ、、、なんで?」とか言われたりする

*2:現在最も新しいホワイトヘッドの研究書はハーマンとかメイヤス―とか所謂新しい実在論の色が濃い

*3:学派みたいなものって意外と馬鹿にならない効果を良くも悪くも持っていると思っている。

*4:ホワイトヘッドが伝統的な認識論から宇宙論を展開していくことについて