マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

原恵一『かがみの孤城』(2022)感想

 さっき映画館で見てきた。お客さんの入りはまあまあ、というか思ったより入っていた。中高生や子連れの人が多い感じ。監督の原恵一さんといえば『クレヨンしんちゃん』の映画シリーズを思い浮かべることと思うが、森絵都さんの『カラフル』をアニメ映画にしたりしていたりもする。

 久しぶりに「いい話」な映画を観た気がする。これは作品として出来が良いというわけではなく(この作品は決して悪くなかったけど)まとまっていてハートフルな物語だった、ということである。中学生たちの内面的な事情がファンタジックな出来事を通して回復へと向かう心地の良い物語であり、かつそのファンタジー要素がミステリ的な技法とがうまいこと結びついている感じだ。

 私より先にこの映画を見た知人が真田という登場人物への強めのヘイトを表意していたため、私はちょっと期待していた。そしてその真田が予想の八倍くらいやばかった。真田は端的に言えば主人公をいじめており、その心的外傷が原因で主人公は不登校になってしまうのだが、そのいじめが結構苛烈なものだった。初見ではこんなやばいやつがほんとうにいるのかよという印象だったが、そういう悪辣な存在が(あるいはフィクションではいまだ描かれていない、それをゆうに超えるような悪の権化みたいなやつが)現実に存在するのがいじめという現実を生じせしめているのだろうとも後に思った。

 私はたまに、私が中学生や高校生の時分にいじめとは言わないまでもある程度の心的ショックを他人に与えてはいなかったか急に不安になる時がある。当時の私は現在の私より良い意味でも悪い意味でも元気だったし、反省的でなかったから、なにかしでかしていてもおかしくないと思う*1。私は直接的ないじめの現場に居合わせたり、参加したりはしなかったと強く信じているけれど、それは自分のなした行為をいじめとか苛烈だとは認知していないだけかもしれない。

 話の展開としてはよくできていたというか、丁寧に作ろうというテンション感が伝わってきた。しかしこういうのは伝わらないほうがいい場合があると思っていて、それは作りが丁寧すぎて「あざとさ」が生まれている場合である。でもこの作品ではそんなことはあまりなかった。私は「伏線回収」とかが結構嫌いだけれど、多分それは作品を鑑賞した人が作品を評価するときに「この伏線気づいてた?ニヤニヤ」みたいな態度をとることが嫌いなだけで、物語に整合性を持たせることは誠実なことだと思う。

 でもよくわからないというか投げっぱなしでいいのかみたいなツッコミどころはある。結局孤城はリオンの姉が観念的なパワーで創造したってことでいいのか、その姉貴は死にそうになりながらどうやって病室から城に出入りしている(いた)のか。でもまあこの辺を詰めるのは愚かな哲学者の仕事かもしれない。

 でも本当にいい話だった。私は理想主義なところがあるから、ハッピーエンド自体はかなり好きな方だ。こういう作品は「教育的」とか言われうるのだろうかとか、真田のような人がこの作品を見るとどう感じるのだろうか、みたいなことも考えた。そもそも映画館に足を運ばないのかもしれないな、とも。

 

 

*1:もちろん現在進行系でしでかしてるかもしれないけども

鈴木清順『殺しの烙印』(1967)感想

 『殺しの烙印』は、鈴木清順の監督作品である。また具流八郎という脚本家グループの最初にして最後の映画作品でもある。この作品は当時の日活社内における評判が非常に悪く、鈴木はこの作品が原因で日活を追い出されたりしている。この追放に対する学生や映画ギークたちの反対は強く、シネクラブを中心とした「鈴木清順問題共闘会議」なるものまで結成されたりもしたらしい。とまあそんなアウトローな背景も相まって、本作はある種のカルト映画として位置づけられることが多い。

 私がこの作品を初めて観たのは学部生のときだった気がする。今回でおそらく二回目にはなるのだけれど、当時とそこまで評価も感想も変わっていない。この作品の良さは、全編を通してどこか「胡散臭さ」を帯びていることだと思う。

 まず殺し屋という職業があって、個々人にランキングがつけられているという設定が既に胡散臭い。*1普通殺し屋が描かれるときにスポットが当たるのはある種の死生観だったり、殺しの凄惨さに由来するクールさだったりするものだが、この作品では殺し屋の序列間闘争が描かれているのがおかしみを生んでいる気がする。*2しかも、これは重要な点な気がするが、このような設定、つまり殺し屋のランキングのシステムとか殺し屋組織の内実とかに関する情報が著しく少ない。これによって、シュールな舞台装置が登場人物にとってはなんてことのない所与のものである感じが増し加えられて、観劇者には寧ろリアルに感じられるように思う。

 場面描写についても、なんだか現実感のない、所謂なめらかな進行とは程遠い展開とシーンが多い気がする。序盤ではハードボイルドな主人公が、中盤では死を恐れて子供のように泣き叫んだり、かと思えばナンバーワンを目指すと意気込んで小躍りしたり。人格とそこから想定される行動とが意図的にズラされているような感じがする。*3またシーンを取ってみても、スタイリストの高が火だるまになって走り回るシーンだとか、パンツ一丁の主人公が車に張り付いて銃撃するシーンだとか、実際の殺人という出来事が浮ついたテンションで描かれているのがよい。しかもこれらのことによって描写が「不自然に」なっているのではなくて、不自然な出来事が「自然と」描かれているのがうまいところな気がする。

 撮影技術については詳しくないので余計なことは言いたくないが、フィルムに直接白いペンで模様を書き込んだりするのは挑戦的だと思う。このシーンだけでなく全編を通して言えることだと思うが、この作品は「これが映画である」ことを自己言及するような、あるいはそれを匂わすような描写が多々あるように思われる。例えば映写機で映し出された中条美沙子(主人公の愛した殺し屋)を主人公が抱き寄せてスクリーンが外れるシーンだとか。*4思えば、こういう技法も相まって作品の「胡散臭さ」を助長しているのかもしれない。

 映画の感想を文字に起こしたのは初めてなので、なにいってんだこいつって感じもしますが、ご勘弁を。

 

*1:これは大和屋竺のアイデアらしい。

*2:ナンバー4の優男には「スタイリストの高」という通り名までつけられていたりもする。押井作品における立喰師の通り名はここに着想を得ている気がするが考えすぎか。

*3:主人公が「米の炊けた匂い」を異常なほど愛するという設定があり、米の匂いを嗅ぐだけのシーンが多くあったりする。

*4:しかし、おそらくこのような感想はあまり純粋なものではない。というのも私が押井守の実写映画の影響を強く受けているためである。でも押井守の『トーキングヘッド』のラストシーンは、この作品のラストシーンと非常によく似ていると思う。

『過程と実在』研究の展望~「決断」概念に注目してみる~

 もう四年くらいホワイトヘッドを読んでいるけれども、よくわからない。わかったことといえば、世界が複雑だということくらいだと思う。しかしながら、そのよくわからないものを修論で扱わざるをえないので、とりあえずの方針をまとめておこうと思う。

 まず、『過程と実在』における根本的な概念としてのactual entityについて、これまでの解釈を改め(?)よう。このブログでも度々誤解を生むような書き方をしていると思うけれども*1、actual entityは語の見かけに反して非常に小さな存在の単位であるということに注意すべきな気がする。度々ホワイトヘッドがいうように、actual occasionのほうが語としては適切でさえあるように思われる。したがってこのブログではこれからは単に「契機」と呼ぶことにする。

 例えば「リンゴがある」という契機は、二度と繰り返されない刹那的な契機であり、他ならぬ同一のリンゴが存続した結果としての、時間的に後続する「リンゴがある」という契機とは区別される。つまり、「リンゴがある」という契機は、「ある特定のリンゴが、ある時、ここにある」という非常に些末な出来事である。したがってactual entity は、時間を通して存続するような存在者では決してない。*2

 ホワイトヘッドが提案する宇宙観は、このようなバラバラの小さな契機をprehensionした結果として新たな契機が生成し、その契機がまたprehensionされることによって別の契機が生まれる、というような連鎖によって現実世界が進行していくというものであるとひとまず言える。このprehensionというのがとんでもなく厄介な概念なのだけれど、ここではとりあえず「先行する契機を後続する契機の構成要素にする作用」とでもしておく。後続する契機Xは、先行する契機A,B,C...etcをprehensionすることでそれらを何らかの意味でX自身を構成するものとして含んでいる。一つの契機における多数の契機の共在性togethernessは、ホワイトヘッド形而上学において根本的なアイデアである。

 では「いかなる意味において」、契機は後続する契機にとっての構成要素となるのか。この問に答えるためには、「客体化objectification」という概念を解明しなければならない。契機Xが契機Aをprehensionする際、契機Aは契機Xに客体化されるともいわれる。先に指摘したように、契機Aは契機Xの内容を構成する上で何かしらの役割を果たす。そしてこの役割がいかなるものであるかを決定するのが、永遠的客体eternal objectと呼ばれる形相である。例えばある特定の瞬間に私の目の前にあるコーヒーは、それに後続するコーヒーを飲むという契機に客体化されている。具体的には、コーヒーは後者の契機において私に感じられている「味」を構成している。つまりコーヒーは、コーヒーを飲むという契機に、その味という永遠的客体を介してvia客体化されている。しかもこれは単なるコーヒーの味ではなく、他でもない、その時私の目の前にあった特定のコーヒーが持つ味なのである。故に客体化されているのはあくまでも契機であって、永遠的客体はその客体化の様態を説明するに過ぎない。

 ここで検討した事例は非常に日常的であり、秩序立ってさえいるように感じられる。少なくともある特定の瞬間に私の目の前にあるコーヒーが次の瞬間に消失したり、私がコーヒーカップに齧りついたりするような契機よりは遥かにリアリティがある*3。しかしながらホワイトヘッドの体系では、このような契機が生成することは少なくとも可能ではあるだろう。ホワイトヘッドの体系において不可能であるのは、先行する契機が後続する事実にとって純然たる無であることである。というのも、先行する契機は後続する契機に不可避的にprehensionされるからである*4。しかしこのことは、prehensionされてさえいれば、古い契機は新しい契機の中でいかなる意味も持ちうるとも解釈できる。例えばホワイトヘッドは、エディンバラ城の城石は、その城が跡形もなく消え、単なる石ころになれ果ててもなおその石はエディンバラ城の城石であり続けると主張する。つまりその石はエディンバラ城の石でなくなったのではない。寧ろエディンバラ城の石がその絶えざる客体化の中で新しい性質(永遠的客体)を帯びたり失ったりしているというのである。先に上げたような非日常的で無秩序な契機も、この例と類比的に考える事ができると思う。つまりそのような契機も先立つ契機を何らかの意味で受け入れており、その受け入れ方が、つまり先立つ契機の客体化の様態が奇特であるというだけなのだ、と。

 ホワイトヘッドはしきりに、現実世界の進行における「新しさnovelty」を強調する。それはある契機が別の契機のうちで、これまでとは全く異なる実現のされ方をすることであり、それは永遠的客体の冒険adventureであるとさえいう。故に以上のような無秩序もホワイトヘッドにとっては歓迎されることなのかもしれない。しかし彼は、宇宙に内在する秩序orderについても多く語っている。しかもその秩序は、新しさと対立するようなものではなく寧ろ、新しさによって形作られるような秩序であるようなのだ。私の現在の目的は、ホワイトヘッドにおける形而上学的秩序を明確にすることにある。

 この目的を達成するにあたり私が注目するのは、actual entityによる「決断decision」という概念だ。決断は少なくとも私にとってはホワイトヘッド哲学における最重要概念である*5が、これまでこの概念にスポットを当てた研究は、少なくとも私の知る限りでは全くない。*6私の見立てでは、契機としての生成を終えたactual entityは、決断という作用によってその契機の未来において、つまり新たな契機への客体化の際に能動的に働きかけているのではないかと考えている。この決断によって、当の契機の未来における可能性は純然たる自由ではなく、制限されたものになり、このことが宇宙における秩序を下支えしているのではなかろうか、というのが目下の仮説である。

 今日はとりあえず決断に注目しまっせということを宣言したかっただけなのでここまで。胡散臭い感じもしますがとりあえず唾をつけとくことは大事な気がしたので。

 

 

 

 

*1:正直覚えていない。

*2:寧ろ存続物enduring objectは、バラバラの契機の連なりであり。それらの契機間である特質が継承される事によって可能となる事態であるとされる。また、これはある種の秩序関係として示されるので今後詳しく見ていく。

*3:realityとは区別される「リアリティ」とは何かという問題は重要な気がする。

*4:ホワイトヘッドはこのことを相対性原理と呼ぶ。

*5:「【形而上学的な】説明はすべて、現実の事物による決断と、それが持つ【因果的】効果efficacyとに言及している。」PR[46]、【】内引用者

*6:このことはホワイトヘッドによる決断概念の不明瞭さに起因するのだと思う。これについては次回。

再開

 新年ということで、暫く凍結していたブログを解凍していこうと思う。何も更新していなかった一年半で、結構色々なことが起こった。第一希望の院試に落ちたり、髪を切ったり、卒論を出して学部を卒業したり、なんやかんや別の院に進学したり。

 ブログを更新しなかったのは、単にあまり元気がなかったからだと思う。当初はよくわからないもの(ホワイトヘッド)をなるだけわかるようにすることがこのブログの目的であったけれども、そもそもそのよくわからなさに付き合う必要はあるのか、とかそんな事も考えたりした。*1

 再開したのは、ある程度まとまった文章を一定量書くリハビリをしておかないと、修論の時に困りそうだからという、その程度の動機からだ。根本的な気分はあまり回復していないので、これまでより気楽な感じで進めようと思う。

 去年はほとんど映画ばかり見ていた。今思うと少しでも感想とか評価とか書き残しておく方が良かった気がするので、今年からはそんなこともしてみようと思う。

 

*1:今も考えている。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第32回〉2-2

延長的連続体(extensive continiuum)

 延長的連続体と呼ばれる概念には、ホワイトヘッドにおける前期から中期にかけての仕事、殊に相対性理論に代表される物理学に従事していたという事情が意味を持っているらしい。しかし私には物理学の素養が著しく欠けており、この概念を彼の『過程と実在』以前の専門的な記述と関連させて子細を述べることはかなわないだろう。

 しかしこの概念が、どうやら物理的な「場」のようなものを指すらしいことはホワイトヘッドの記述からみてとれる。ホワイトヘッドはそのような「物理的場」からの抽象によって、個々の時間化ないし空間化された実質が生じてくることを強調する。換言すれば、それは原子的な諸現実態に「可分(divisible)」ではあるものの、それが現実にどのように区分されるかは「不定(indefinite)」であるのだといえよう。

 これらのことから、さしあたって延長的連続体はこれまでの言葉遣いで言えば「潜勢態(potentiality)」の範疇のうちに認めることはできるだろう。「この延長的連続体は、すべての潜勢的な客体化がその場所(niche)を見いだす一つの関係的な複合体である。それは過去、現在、未来にわたって、世界の全体の根底にある。」

 しかしながら、それ自体では未分化のこのような延長的連続体は、決して無際限の可能性といったものではない。これまで何度も付言してきたことであるが、潜勢的な領域は常に現実的実質による制限を免れないのである。それはある現実的実質から生じるがために「リアル」であり、またそのような個々の実質に由来するがために、ほかならぬそれぞれの実質が共有する場としての性質が確約されるのである。

 では具体的に、異なる諸実質がいかなる意味においてそのような延長的連続体を共有し、そこにおいて「連帯性(soliditality)」を獲得するという事態が可能になるのだろうか。このところの理解に際して肝要であるように思われるのは、「パースペクティブ」という概念である。

延長的連続体は、ただちに、客体化における最初の要因となる。それが提供するのは、現実的実質がそれによって抱握し合うすべての交互的客体化に示されている、延長的なパースペクティブの一般的構図である。こうして延長的連続体は、それ自身、全ての現実的実質の交互的抱握に例証されねばならないリアルな潜勢態の構図である。

 この引用で示される「パースペクティブ」の解釈は難しい。おそらくそれは何かしらの延長的な関係、端的に言えば「現実的実質相互間の位置関係」のようなものであるように思われる。位置という言明によって殊に空間を指すように思われるが、注意すべきであるのは、この領域において未だ時間や空間といった区別さえも生じていないという点であろう。さらにいえば、ここで問題となる現実的実質は確定的な物ではなく、あくまでもそれらに「可分的」であるに過ぎないということも思い出されねばならないだろう。

 とにかく、延長的連続体という領域においては未決定な仕方での統一的な経験が認められるということは確かである。問題は、この統一がいかにして起こっているかという点である。ホワイトヘッドによる最も簡潔な答えは、「秩序付けられた世界から派生する」というものである。端的に言えば、与件として与えられた他の現実的実質が構成する現実世界からそのような統一性、すなわち諸パースペクティブ間の連帯が可能になるのだととりあえずのところ解釈できる。

 しかしながら、正直なところそのような事態を私がうまく言語化することが全くできていないのは明らかだ。目下のところは、ヒントになりそうな記述を見ておこう。

経験の働きは、それ自身のパースペクティブな立脚点が延長的内容をもち、また他の現実的実質がそれらの延長的関係を保持しながら客体化されるという二重の事実のゆえに、延長的秩序の客体的構図を有している。

この延長的関係の「保持(retention)」は、先述した潜勢態の制限を冷笑するように思われる。しかしやはり、そもそもの「延長的関係」というものがよくわからない。ホワイトヘッドの例が「全体とか部分」、「重複」、「接触」などといった空間的な物に留まっているということも不明瞭さを手伝っているといわざるをえない。これまでの疑問は、どうしても「延長」というものを考える場合、何らかの意味で分化された現実的実質を先んじて考えてしまうことに起因しているといえるだろう。

 思い起こすべきは、延長というものもまた、永遠的客体のように現実的実質を「関係づける(relational)」機能を持つということかもしれない。

感覚与件との関係

 前回、関係を差配する永遠的客体についてみたが、ホワイトヘッドによれば感覚与件(sense-data)もその永遠的客体に分類される。端的な「赤さ」(例えば赤い椅子を見るとき、原始的な段階で経験されるのはぼんやりとした「赤さ」に他ならない)などはその例である。

 ホワイトヘッドによる感覚与件の説明で興味深いのは、そこで得られる永遠的客体が、先に見たような延長的関係と共に現実的実質の内的関係を構築するという点にある。感覚与件は空間の中に「配置(distribution)」され、「延長」を獲得しており、さらにここから現実的実質が原子化してくるのである。つまり、そのような永遠的客体と延長的連続体同士の関係、こういってよければそれらの組み合わせによって初めて、現実的実質がそれに順応し個体化するところの与件が準備されるのである。 

 前章で、延長的連続体が単独でそのような与件、リアルな潜勢態を成すと考えてしまったことが困難を生んでいたのかもしれない。その与件において成り立っているのはあくまでも時空的色などの諸性質の関係性であって、その関係を実際にどのような現実的実質が満たすかは未決定であり、その意味で未分化であるということもできよう。

 さらに、感覚与件はそれが直接経験される際、過去の現実的実質を現在の現実的諸実質との「結合(connect)」を行い、いわば同時的な出来事と過去の出来事双方の客体化を行うという機能さえ備えていることは肝要である。ホワイトヘッドの例は簡潔である。「例えば、われわれは同時的な椅子を見るがわれわれはそれを目見る。(中略)こうして色は、一方では椅子を、他方では目を、主体経験の要素として客体化する。」

 このことから、未分化であったリアルな潜勢態としての与件は様々な仕方で可分であるということが帰結する。というのも、その与件と共にある現実的実質が客体化されるのであれば、その客体化された実質に応じて、その与件が具体的にどのように客体化されるかが異なってくるであろうからである。このことは、経験の主体ならびに客体の「歴史的経路(historical routes)」や、「外的環境(external environment)」を加味することによって明らかとなるだろう。

 ホワイトヘッドは、「虚像的(delusible)」な経験というものを例にこれを説明している。我々が椅子を見る際、そこには先述したような感覚所与という永遠的客体と、それを例示する延長的関係があるわけであるが、それだけでなく、永遠的客体によって様々な先立つ現実的実質も客体化されている。例えばその椅子を「目で」見る、「鏡を通して」見る、あるいは「薬剤を服用して(幻覚として?)」見るといった事情が挙げられる。この際、我々は椅子を「見なかった」のではなく、過去の実質による制限を受けながら「見た」のだといえる。この三様の椅子を見るという出来事としての現実的実質の発生に際し、与件が同一であると仮定してみても、それぞれは区別される、個別的で原子的な実質であるということができるだろう。すなわち、三様の仕方で与件は分化し得るのであるが、それ自体としては未区分であるのだ。というのも、このような先行する実質に由来する様々な要因は、直接的な仕方で知られ得ることはないからである。

 最後に、未だ謎多き延長的連続体とパースペクティブに関して付言しておく。このような感覚所与によって関係づけられた諸実質それぞれが、それぞれのパースペクティブを持ち合わせており、かつそれらが「保持」されるのだとしたら、それらの先立つパースペクティブと、現在において働いているパースペクティブの相互作用が起こることになろう。このような中間的なパースペクティブとして潜勢的な構図が作り出され、そこに向けて感覚所与(永遠的客体)が先立つ現実的実質を位置づけることによって、新たな実質が生じてくると考えてよいのだろうか。

 

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第31回〉2-1-5~7

 引き続き、第二部第一章から。

特殊と普遍の調停

 大きすぎるテーマではあるが、ホワイトッドが実際強調する問題であるのだから仕方がない。まずホワイトヘッドによる主張をしつこい程に確認しよう。最も肝要であるアイデアは、ある現実的実質が他の現実的実質に客体化されることによって、後者の実質を内的に、(こう言ってよければ)本質的にさえ構成するというものであった。このことからホワイトヘッドは、ある実質の説明(description)の領域においてさえ、当の実質とは異なる他の実質が介入してくるということを加味せねばならない、と主張するに至っている。

 ホワイトヘッドは、ある個的な現実的実質つまり「特殊なもの(particulars)」がそれ自身を超えたより普遍的な領域、すなわち他の実質の構成に介入しているというこの事実から、その実質それ自体が「普遍的なもの(universals)」としての性質を持ちうることを結論付けている。

 これについては些か疑問が残る。たしかに現実的実質が他の実質に寄与することは間違いないとしても、それが直接的な仕方で普遍性を獲得することはあり得るだろうか。ある現実的実質の説明や解明に際して、そこに参入している現実的実質によってそれを行うことができれば、間違いなくある現実的実質が他の現実的実質を説明しつくすことができており、普遍性を獲得しているだろう。しかしながらそのように考える場合は、双方の実質に何らの差異が認められないという事態を不可避的に招く。しかしこのような一元論はホワイトヘッドの容認するものでは決してない。

 より立場を弱める形で、ある実質の説明において他の実質それ自体が不可欠だと考えてみてはどうだろうか。*1実質「それ自体」と書いたのは、その実質がそれによって表現され得る普遍者、換言すれば質や形相と区別するためである。仮にそのような、ある現実的実質を代弁するような普遍者が、他の現実的実質の説明に参与するという事態としてホワイトヘッドの主張を理解してしまうことは、本末転倒に他ならないだろう。では、そのような普遍者から解放された、純粋な状態における実質が、他の実質に介入するという事態とはどのようなものであるのか。

 ホワイトヘッドは、ジョン・ロックの哲学に自身の有機体の思想の萌芽を見いだしながら、独自の主張を行うことに成功しているように思われる。ホワイトヘッドがロックの思想からの取り出しにおいて重視するのは、経験という働き(ロックにおける「観念」でありホワイトヘッドにおいては「抱握」であるが)が「外的な事物に見いだされるがままに(as the are found in exterior things)」起こるというアイデアである。他の箇所における、「最初に質があり次いで推論された個々の事物があるというものでもない。その逆だ。」や、「抽象的観念には『特殊な存在の観念』が先行する」というロック哲学への評言と考え併せれば、この主張は、現実的実質における認識作用において根本的であるのは、普遍者の進入ではなく寧ろ他の実質それ自体の、外的なものとしての介入である、というものに集約できるのではなかろうか。

 この主張から、現実的実質の抱握による構成においては、他の実質がもつ特殊性を維持したままでの抱握があるということ、換言すれば単なる普遍者(の集合)としてではなく、当の実質から区別される外的なものとして、つまり元来それが持っている独自の構造を保存して抱握されるということが導き出せるだろう。したがって、このような特殊な現実的実質が他の実質に対して持つ効果から、特殊性から普遍性への接続を見ることは可能だろう。

普遍と特殊の調停

 これまで、特殊的な実質が他の実質に対して持つ普遍的な効果について見てきたが、未だ不十分な要素が存在する。それは、このような特殊から普遍への接続は、さらに普遍から新たな特殊への接続を必要とすることに起因する。かみ砕いて言えば、ある実質が他の実質に介入するというだけでなく、その介入によって普遍的な要素を含むことになった後者の実質が、他ならぬ個体として、特殊化された実質として生じるという事態が起こるのである。

 単に諸実質を「外的な事物に見出されるままに」受け入れるだけで実質が生じると考えることは、その実質は単に先行する出来事の集積と同一視され、個体化されていないとする一元的な実体観に逆戻りすることに他ならない。そこにはいわば「特殊化」ともいえる作用があるはずであり、これについて解明されねばならない。

 この特殊化を差配すると考えられるのが、意外にも「永遠的客体」であるという事実は興味深い。

【永遠的客体は、】任意の一つの現実的実質が他の実質を綜合することによっていかに(how)構成される(constitutioned)か、そしてその現実的実質が、原初的に与えられた相から、その個体的な享受と欲求とを含むそれ自身の個体的な現実存在(individual actual existence)へといかにして進展していくかを表現する。

さらに、このような永遠的客体による個体化の内実をより具体的に説明するなかで、ホワイトヘッドは「地位(status)」という独自の用語を多用する。ホワイトヘッドによれば、個々の抱握されたもの、先の言葉で言えば「外的な事物に見出されるまま」の諸観念(諸実質)は、ある実質の内に共存しており、その共存には基盤となる「内的関係(internal relations)」が結ばれていることを強調する。

 ホワイトヘッドは、永遠的客体の働きによってそれぞれの諸実質が相互の関係に差配され、それぞれの「地位」を持つことによって初めて、その諸関係の総体としての実質の固有性が獲得されるのだと主張していると解釈できる。「永遠的客体が、当の現実的実質を構成するものとしての現実的諸実質の諸多性を導き入れる機能を果たして」おり、ある個別的かつ特殊な現実的実質が現にそのような実質であることは、永遠的客体が「現実世界における地位を当の現実的実質に割り当てる(assign)」ことに起因する。

 

 このように、個体としての現実的実質が独自の地位を永遠的客体によって付与された総体であることが主張されることによって、先に触れた「外の事物に見いだされるがままに」抱握するということに付言することも可能だろう。まさにこの抱握は、「外の事物の個々の特殊性の地位を感じる」ことに他ならないのだ。つまり、既に成り立った、厳密な内的関係を伴ったものとして他の実質を感じるということである。

 したがってここにおいて、この内的関係並びに地位それ自体は、ある意味で保存されて新たな実質に伝達される、ということも導出できるだろう。現実的実質というものの意味が、先に見たように単なる内容物(諸実質)のみならずそれらを結び合わせる内的関係までも含めて理解されねばならないならば、そのような関係を伴った他ならぬその実質の抱握は、その実質の抱握である限りにおいてその実質を「変化(change)」させるものであってはならない。

 むしろそのような「変化」、つまり新しい個別的実質の生成に関与するのは、新たな内的関係と地位の付与者である永遠的客体でなければならないだろう。ここにおいて「『変化』は、現実の事物が発展する只中における永遠的客体の冒険(adventure)を記述することである。」というホワイトヘッドの言も理解可能ではなかろうか。特殊な個々別々の出来事が他の出来事に参与し、それぞれがそれぞれの内で永続的に実効力を発揮するという意味で現実的実質の普遍性が現れる。また他面、そのような相互対話的領域から決して疎外されることはないが、それでも各々が差異と新しさを持った個体として生成するのは、永遠的客体によってそのような外的影響を新たな総体に組み上げる、関係づけの特殊性も現れる。*2

*1:決して、実質がそれ自体のみで独立して存在するといったたぐいの前提ではない。常に実質は、他の実質との関係を内に含む。

*2:この特殊性には、前回見たような永遠的客体の「選択」という自発的要素も関係しているかもしれない。

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第30回〉2-1-1~4

 時間というのは恐ろしいもので、なんやかんや個人的な用事を片付けていたらふた月近く更新できませんでしたね。頑張ります。

 今回から第二部に入って、より具体的な議論になっていくはず。特に「事実と形相(fact and form)」と題された第一章はかなり重要なテーマを扱っている感じだ。

 これまで見てきたように、ホワイトヘッドは現実世界を、種々雑多な「抱握」という作用によって創発する過程と同一視するが、そのような過程を初めて明確に「経験」と呼称しているのもこの章においてだ。

各現実的実質は、与件(data)から生起する経験の働きと考えられる。それは多くの与件を「感じ」て、それらを一つの個体的「満足」の統一性へと吸収する過程である。 

注目したいのは、この与件とは何か、つまり経験作用としての現実世界において、感取の対象とは一体何かという点だ。あらゆる現実的実質は、先立つ現実的実質によって与えられたものを経験することから出発して、新たな現実世界を形づくっていく。とするならば、現実的実質の、ないしは現実世界そのものの出発点を見定める作業は肝要なものとなろう。

永遠的客体と現実的実質

 与件とか所与性について考えるに際し、重要となるのは現実的実質と永遠的客体の差異である。端的に言えば、いかなる現実的実質も必然的に他の現実的実質にとっての与件となるのに対し、永遠的客体の方はその限りではないという差異がある。これはもう少し詳述する必要があるだろう。

 まず引用から

「主体」として与えられたある現実的実質に相対的な現実世界のすべての 現実的実質は、一般に漠然とではあるが、その主体によって必然的に「感じ」られる。感じられたものとしての現実的実質は、その主体に「客体化(objectified)」されるといわれる。諸永遠的客体から選択されたもののみが(only a selection of eternal objects)、ある与えられた主体によって「感じ」られる。そしてこの場合、これらの永遠的客体は、その主体への「進入(ingression)」をもつといわれる。

 ここにおいて、永遠的客体と現実的実質の間の差異が強調される。その差異とは、(私が太字で示したように)それが感じられるに際しての「必然性」ともいわれ得るような様相における差異であるだろう。

 ホワイトヘッドの主張において一貫しているのは、ある現実的実質が他の実質に抱握、ないし感じられることによって、前者の実質が後者の実質を内的に構成するというものであった。しかし、前者の実質から生じてくる実質は、そのような先立つ実質の単なる「再生(reproduction)」ではないことは直観的にも明らかだろう。上手い例とはとても言えないが、我々はそばを食べたがために、我々自身が(部分的にだとしても)そばに成るわけではない。そばがもつ質のすべてを、我々は自身の内部に残存させるのではない。確かにそばの「味」だとか「栄養素」は摂取され、享受されるであろうが、そばの「形状」は残存しないか、全く違うものに変化しているだろう。そばを食べるという事実(現実的実質)は必然的であるが、その経験の内実、つまりその経験から何を獲得するか、つまりどのような性質(永遠的客体)を受容するかは選択的で、必然的ではない。むしろ永遠的客体は、潜勢的で可能的(potential)なものである。

 このように、現実的実質と永遠的客体の抱握のされ方には大きな差異が認められる。現実的実質は後続する実質にとっての必然的な構成要素となる(客体化)が、その実質が本来持っている質、つまり永遠的客体はそのような必然性を持たず、「選択」という作用を介することによって後続する実質に「進入」する。*1

決断(decision)と所与性

 所与(giveness)について考える際に注意すべきことは、それと与件との区別だろう。それらは殆ど同一視されるかもしれないが、*2目下のところ区別するべきだろう。というのも、先に見たように永遠的客体が「選択」されて初めて与件が出現することを考えあわせれば、いわばその選択肢が、つまり可能性として単に与えられていた「所与性」の全体が考えられねばならないだろうからだ。

 しかしながら、この所与性という概念を、無際限の可能性のようなものと取り違えてはならない。ホワイトヘッドは「決断」という語を導入することによって、所与性というものはいわばある種の条件づけられた潜勢態であることを強調しようとしている。

 些か先取りして言えば、「決断」とはある実質の生成過程における最終相に該当する。そこにおいて実質は、その当の主体としての生成を終えた「満足(satisfaction)」という状態にあり、「決断」とは、その実質がまた新たな実質にとっての「客体」となっていくような、いわば諸実質間にある生成の過渡期であるということができる。ある実質が決断を行うことによって、他の実質にとっての所与性が創始するのである。

 ホワイトヘッドの言を借りれば、

あらゆる決断が表現するのは、決断がそのために(for)なされる現実的事物と、その決断がそれによって(by)なされる現実的事物との関係である。【中略】現実的実質はそのためになされた決断から生起し、まさしくその存在によって、それにとって替る他の現実的実質のための決断を用意するのである。

ここでは、ある実質によってなされた決断が、そのまま他の実質にとっての所与性を構成するというようなことが言われていると解釈できるだろう。ある実質は、いわば無制限の状態から生成するのではなく、他の先行する実質の決断という作用の強い影響下にあって生成するのである。いわば決断する実質は、それ自身を超え出た創造性の領域、つまりその実質自身が他の実質に抱握されることによって享受し得る可能性を「制約(condition)」するのである。

 ホワイトヘッドの例は明快である。エジンバラ城は、様々な歴史的事実に伴う決断の契機として存在し、仮にそれが災害によって崩壊して岩の破片になったとしても、それは他ならぬエジンバラ城の破片であるという事実によって制限されている。換言すれば、その岩は様々な形相、質を獲得するが、それがかつてエジンバラ城を形成していたという現実からの制約を受け続けるということだろう。

 このようにして、ある実質の生成に際して与えられる諸形相のネットワークは、それに先んじる実質の決断に条件づけられており、所与性とはすなわち「秩序付けられた関連(ordering of relevence)」の範囲における諸形相であるということができるだろう。*3

 所与性の二つの意味

 ホワイトヘッドは、所与性における二つの意味について簡潔に語っているものの、目下のところ不明瞭な理解しかえられていない。以下では仮設的な記述の色が強くなる。    

 第一に、「現に『与えられて』いるものは『与えられ』なかったかもしれず、また現に『与えられ』ていないものは、『与えられ』たかもしれないということ」という意味が挙げられる。

 これについては一応の理解ができるだろう。先述したように所与性というものが先立つ実質の決断次第で生じるものであるならば、先立つ実質がいかなるものであるかによって所与性がいかなるものであるかが左右される。したがって与えられる可能的な形相の範囲が、まさに現に与えられているものでしかあり得ないというような必然性はないだろう。

 所与性を構成するもう一つの意味は、ホワイトヘッドによって「排除性(exclusiveness)」と呼ばれる要素と関連する。この排除性によって、ホワイトヘッドは所与性を単なる多の複合ではなく、ある「均衡をもった統一性(balanced unity)」を備えた、「綜合的な所与性(synthetic giveness)」なるものが成立するのだと主張している。ここから、先立つ諸実質の決断によって与えられた多なる所与をある意味で超越した段階において、むしろそこから幾分か排除することによって高次の統一性を獲得したものが「所与性」に他ならないというのが、ホワイトヘッドの主張であると解釈することもできるだろう。

 しかしながら、この所与における統一が、現実的実質の合生における「最終的な」ものであることには注意する必要があるように思われる。つまり、この所与性の統一性は原初的な段階において決定的な物では決してなく、むしろ後続する過程において達成「可能」であるという意味での、未決定な統一性であると言われるべきであろう。換言すれば、概念的に綜合可能であるという弱い統一性こそが、原初的な所与性に備わっていると考えられる。

 ホワイトヘッドは絵画を見るという経験を例に挙げている。絵画の種々雑多な色彩パターンを所与性とした場合、もしそこに余計な赤い一筆を加えてしまった場合、それは所与の均衡を破壊してしまう。我々はその時点で元の絵画を経験しているのではなくなってしまうのである。他ならぬその絵画の経験であるための必要な条件として、所与性の調和ともいえるものがあり、もしそこに異質な要素が混入してしまえば、その経験の全体そのものが統一不可能なものとなって瓦解してしまう。この意味で、元の所与性はこの異質な要素をあらかじめ「排除」しているともいえるだろう。

 後半部分はまたまとめ直したいです。。。難しい。実質の決断に由来する決定的な要素が潜勢的な要素(可能な形相)を制限していて、他面潜勢的な要素(例えば絵画性?)もまたその経験の与件となる実質の範囲も制限しているというイメージなのだろうか。例えば絵画としての調和が前提されていれば、余分な赤い落書きは少なくとも絵画としてのまさにその経験の与件からは除外される気がする。

 

*1:ここにおいて選択されなかった永遠的客体は、「消極的抱握」という作用によって結びつきを担保されている。それは「感取」されていないために内的構造に寄与してはいないが、実質全体の「主体的形式」に関わり、当の実質が他の実質を「どのようにして」感じ取っているかを決定している。この意味で、選択されていない永遠的客体は抱握の与件ではないものの、抱握作用そのものにおいては重要な役割を担うといえる。

*2:現実的実質については、それは与えられれば必然的に感取の対象となるため、与件と所与は同一視できるかもしれない。

*3:その範囲に関して、ここでは詳述されていないが、先んじている現実的実質の内に例示(exemplified)されている永遠的客体や、実質とのコントラストに起因してごくわずかに関連している形相なども認められるだろうことが言われている。