マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第30回〉2-1-1~4

 時間というのは恐ろしいもので、なんやかんや個人的な用事を片付けていたらふた月近く更新できませんでしたね。頑張ります。

 今回から第二部に入って、より具体的な議論になっていくはず。特に「事実と形相(fact and form)」と題された第一章はかなり重要なテーマを扱っている感じだ。

 これまで見てきたように、ホワイトヘッドは現実世界を、種々雑多な「抱握」という作用によって創発する過程と同一視するが、そのような過程を初めて明確に「経験」と呼称しているのもこの章においてだ。

各現実的実質は、与件(data)から生起する経験の働きと考えられる。それは多くの与件を「感じ」て、それらを一つの個体的「満足」の統一性へと吸収する過程である。 

注目したいのは、この与件とは何か、つまり経験作用としての現実世界において、感取の対象とは一体何かという点だ。あらゆる現実的実質は、先立つ現実的実質によって与えられたものを経験することから出発して、新たな現実世界を形づくっていく。とするならば、現実的実質の、ないしは現実世界そのものの出発点を見定める作業は肝要なものとなろう。

永遠的客体と現実的実質

 与件とか所与性について考えるに際し、重要となるのは現実的実質と永遠的客体の差異である。端的に言えば、いかなる現実的実質も必然的に他の現実的実質にとっての与件となるのに対し、永遠的客体の方はその限りではないという差異がある。これはもう少し詳述する必要があるだろう。

 まず引用から

「主体」として与えられたある現実的実質に相対的な現実世界のすべての 現実的実質は、一般に漠然とではあるが、その主体によって必然的に「感じ」られる。感じられたものとしての現実的実質は、その主体に「客体化(objectified)」されるといわれる。諸永遠的客体から選択されたもののみが(only a selection of eternal objects)、ある与えられた主体によって「感じ」られる。そしてこの場合、これらの永遠的客体は、その主体への「進入(ingression)」をもつといわれる。

 ここにおいて、永遠的客体と現実的実質の間の差異が強調される。その差異とは、(私が太字で示したように)それが感じられるに際しての「必然性」ともいわれ得るような様相における差異であるだろう。

 ホワイトヘッドの主張において一貫しているのは、ある現実的実質が他の実質に抱握、ないし感じられることによって、前者の実質が後者の実質を内的に構成するというものであった。しかし、前者の実質から生じてくる実質は、そのような先立つ実質の単なる「再生(reproduction)」ではないことは直観的にも明らかだろう。上手い例とはとても言えないが、我々はそばを食べたがために、我々自身が(部分的にだとしても)そばに成るわけではない。そばがもつ質のすべてを、我々は自身の内部に残存させるのではない。確かにそばの「味」だとか「栄養素」は摂取され、享受されるであろうが、そばの「形状」は残存しないか、全く違うものに変化しているだろう。そばを食べるという事実(現実的実質)は必然的であるが、その経験の内実、つまりその経験から何を獲得するか、つまりどのような性質(永遠的客体)を受容するかは選択的で、必然的ではない。むしろ永遠的客体は、潜勢的で可能的(potential)なものである。

 このように、現実的実質と永遠的客体の抱握のされ方には大きな差異が認められる。現実的実質は後続する実質にとっての必然的な構成要素となる(客体化)が、その実質が本来持っている質、つまり永遠的客体はそのような必然性を持たず、「選択」という作用を介することによって後続する実質に「進入」する。*1

決断(decision)と所与性

 所与(giveness)について考える際に注意すべきことは、それと与件との区別だろう。それらは殆ど同一視されるかもしれないが、*2目下のところ区別するべきだろう。というのも、先に見たように永遠的客体が「選択」されて初めて与件が出現することを考えあわせれば、いわばその選択肢が、つまり可能性として単に与えられていた「所与性」の全体が考えられねばならないだろうからだ。

 しかしながら、この所与性という概念を、無際限の可能性のようなものと取り違えてはならない。ホワイトヘッドは「決断」という語を導入することによって、所与性というものはいわばある種の条件づけられた潜勢態であることを強調しようとしている。

 些か先取りして言えば、「決断」とはある実質の生成過程における最終相に該当する。そこにおいて実質は、その当の主体としての生成を終えた「満足(satisfaction)」という状態にあり、「決断」とは、その実質がまた新たな実質にとっての「客体」となっていくような、いわば諸実質間にある生成の過渡期であるということができる。ある実質が決断を行うことによって、他の実質にとっての所与性が創始するのである。

 ホワイトヘッドの言を借りれば、

あらゆる決断が表現するのは、決断がそのために(for)なされる現実的事物と、その決断がそれによって(by)なされる現実的事物との関係である。【中略】現実的実質はそのためになされた決断から生起し、まさしくその存在によって、それにとって替る他の現実的実質のための決断を用意するのである。

ここでは、ある実質によってなされた決断が、そのまま他の実質にとっての所与性を構成するというようなことが言われていると解釈できるだろう。ある実質は、いわば無制限の状態から生成するのではなく、他の先行する実質の決断という作用の強い影響下にあって生成するのである。いわば決断する実質は、それ自身を超え出た創造性の領域、つまりその実質自身が他の実質に抱握されることによって享受し得る可能性を「制約(condition)」するのである。

 ホワイトヘッドの例は明快である。エジンバラ城は、様々な歴史的事実に伴う決断の契機として存在し、仮にそれが災害によって崩壊して岩の破片になったとしても、それは他ならぬエジンバラ城の破片であるという事実によって制限されている。換言すれば、その岩は様々な形相、質を獲得するが、それがかつてエジンバラ城を形成していたという現実からの制約を受け続けるということだろう。

 このようにして、ある実質の生成に際して与えられる諸形相のネットワークは、それに先んじる実質の決断に条件づけられており、所与性とはすなわち「秩序付けられた関連(ordering of relevence)」の範囲における諸形相であるということができるだろう。*3

 所与性の二つの意味

 ホワイトヘッドは、所与性における二つの意味について簡潔に語っているものの、目下のところ不明瞭な理解しかえられていない。以下では仮設的な記述の色が強くなる。    

 第一に、「現に『与えられて』いるものは『与えられ』なかったかもしれず、また現に『与えられ』ていないものは、『与えられ』たかもしれないということ」という意味が挙げられる。

 これについては一応の理解ができるだろう。先述したように所与性というものが先立つ実質の決断次第で生じるものであるならば、先立つ実質がいかなるものであるかによって所与性がいかなるものであるかが左右される。したがって与えられる可能的な形相の範囲が、まさに現に与えられているものでしかあり得ないというような必然性はないだろう。

 所与性を構成するもう一つの意味は、ホワイトヘッドによって「排除性(exclusiveness)」と呼ばれる要素と関連する。この排除性によって、ホワイトヘッドは所与性を単なる多の複合ではなく、ある「均衡をもった統一性(balanced unity)」を備えた、「綜合的な所与性(synthetic giveness)」なるものが成立するのだと主張している。ここから、先立つ諸実質の決断によって与えられた多なる所与をある意味で超越した段階において、むしろそこから幾分か排除することによって高次の統一性を獲得したものが「所与性」に他ならないというのが、ホワイトヘッドの主張であると解釈することもできるだろう。

 しかしながら、この所与における統一が、現実的実質の合生における「最終的な」ものであることには注意する必要があるように思われる。つまり、この所与性の統一性は原初的な段階において決定的な物では決してなく、むしろ後続する過程において達成「可能」であるという意味での、未決定な統一性であると言われるべきであろう。換言すれば、概念的に綜合可能であるという弱い統一性こそが、原初的な所与性に備わっていると考えられる。

 ホワイトヘッドは絵画を見るという経験を例に挙げている。絵画の種々雑多な色彩パターンを所与性とした場合、もしそこに余計な赤い一筆を加えてしまった場合、それは所与の均衡を破壊してしまう。我々はその時点で元の絵画を経験しているのではなくなってしまうのである。他ならぬその絵画の経験であるための必要な条件として、所与性の調和ともいえるものがあり、もしそこに異質な要素が混入してしまえば、その経験の全体そのものが統一不可能なものとなって瓦解してしまう。この意味で、元の所与性はこの異質な要素をあらかじめ「排除」しているともいえるだろう。

 後半部分はまたまとめ直したいです。。。難しい。実質の決断に由来する決定的な要素が潜勢的な要素(可能な形相)を制限していて、他面潜勢的な要素(例えば絵画性?)もまたその経験の与件となる実質の範囲も制限しているというイメージなのだろうか。例えば絵画としての調和が前提されていれば、余分な赤い落書きは少なくとも絵画としてのまさにその経験の与件からは除外される気がする。

 

*1:ここにおいて選択されなかった永遠的客体は、「消極的抱握」という作用によって結びつきを担保されている。それは「感取」されていないために内的構造に寄与してはいないが、実質全体の「主体的形式」に関わり、当の実質が他の実質を「どのようにして」感じ取っているかを決定している。この意味で、選択されていない永遠的客体は抱握の与件ではないものの、抱握作用そのものにおいては重要な役割を担うといえる。

*2:現実的実質については、それは与えられれば必然的に感取の対象となるため、与件と所与は同一視できるかもしれない。

*3:その範囲に関して、ここでは詳述されていないが、先んじている現実的実質の内に例示(exemplified)されている永遠的客体や、実質とのコントラストに起因してごくわずかに関連している形相なども認められるだろうことが言われている。