マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第29回〉1-3-4

伝統的認識論の部分的否認と現象学

 今回でようやっと第一部が終わります。ここからは夏休みも近いし少しずつペースアップを望みたいところ。今回はめちゃめちゃ短いので現象学の話も絡めてみます。

 まず引用から

ここで粗描された宇宙論の構図では、哲学の伝統が持つ一つの暗黙の想定(impicit assumption) が否認されている。それは、経験の基本的要素は、意識(consciousness)、思考(thought)、感覚-知覚(sense-perception)という三つの語のどれか一つかあるいはすべてによって説明されうるという想定である。

 ここでホワイトヘッドは、これまでの認識論がその対象をある種「矮小化(narrowed down)」しているのだという批判を投げかけている。つまり端的に言えば、我々の経験というものはこの三者にパッキリと分析されるものではなく、より多様な要素がそこに複合されているという主張だと理解して差し支えないだろう。*1

 では具体的にどのような形で経験が拡張されるべきだとホワイトヘッドは主張するのか。それはここではもちろん子細には語られないが、仮設的な記述は可能であるように思われる。ホワイトヘッドは以上の三つの要素に対して「非本質的(unessential)」であるとさえ断じている一方で、経験とは「両極的(dipolar)」なものであると主張している。この両極を成すのは恐らくあの「物的感じ」と「概念的感じ」の双方であるだろうが、より重要であるのは経験の「不純(impure)」性だろう。つまり、ホワイトヘッドが考える経験とは、単なる感覚、単なる概念的思考などから順次構成されるものではなく、それらが密接に混ざり合った形で起こる出来事として捉えられているということである。

 このように考えられたより広い「経験」の例を考えてみたい。そして意外かもしれないがこの例は、所謂現象学的な経験の分析*2の派生から考えられる。まず「配達員が部屋のドアをノックしたと思ったら外には隣人がいて驚いた」というような経験について考える。この経験は、「単純なノックの音の受動的感覚」・「音の原因を予想する思考」・「隣人の発見と驚き(ある感覚と判断)」とにはっきりと分析されるように思われるかもしれない。しかしながら、これは真に経験に即してはいないことが、ある種の現象学的分析によって明らかになる。

 まず二番に挙げた「予想」についてだが、この予想的な思考はある種の「志向性」をもっており、その「志向的対象」を持っているということができる。ここでは恐らく、その対象は「配達員」となる。しかし肝要であるのは、この予想が何を予想しているのか、つまりその対象として何を持つのかといった事実の確定には、その「予想」という経験の出来事単体では不十分である。というのも、その予想は「無意識」で行われたものかもしれないからだ。

 この予想の対象を確定しているのはなにか、となるとそれは先述した第三の要素であるということができる。重要なのはそこにおける「驚き」という経験である。なぜ隣人を見て驚くのかと言えば、時間的に先行するあの「予想」があったからである。しかし注意したいのは、単に「予想」が「驚き」を生んでいるのみならず、「驚き」の方が「予想」という経験を確定しているという事態がここに起こっているということである。

 つまり、隣人をみて驚くことによって初めて、認識主体が他ならぬ「配達員を」予想していたという事実が成り立つからである。もし外にいる隣人を見て驚かないならば、認識主体はそもそも予想などしていないことが、少なくとも「配達員を」予想していたことにはならないだろう。つまり、時間的に後になるような別の経験の要素から、当初の経験の要素が確定されるという事態がここにある。

 このようにこの例では、明らかに先述した三つの要素とその複合では記述しきれないほどの経験のネットワークが展開されており、むしろ区別されるその様な要素が、その内容を確定するためには他の要素を必要とすることがわかる。

 しかし、例えば第一の要素である「受動的感覚」に関してはそれ自体で充足した経験であるように思われる。その聴覚に不可避的に概念的な判断(ノックの音として聞く)が含まれていたとしても、何かしらの音が聞こえたという経験はそれ自体で成り立ってはいないだろうか。

 ホワイトヘッドはこの原初的ともいえる所与についてどのように考えているか、*3その態度については後々重要になるが、ここでは措いておく。現象学にしてもホワイトヘッドにしても、何か自体的な経験を考えるよりも、様々な様態の諸経験が相互に内実を決定し合うといったネットワークを描いているように思われる。

*1:経験の拡張というホワイトヘッドの主張は、彼の「感じ(feeling)」という些かぼんやりした用語にも表れているかもしれない。

*2:以下では全体的に『現代現象学』の議論を参考にしています。

 

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*3:セラーズの「所与の神話」みたいな片づけ方もあり得るのか