マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第9回〉1-2-2 「窮極的なものの範疇」とか

 第二節は、構図の中身としてホワイトヘッドが掲げるところの「範疇」(categories)が明確に示される箇所である。ホワイトヘッドは殊に、これら諸範疇の「適用可能性」(applicability)と「十全性」(adequecy)をここでも強調しており、その意味は、(これまでの回でも触れたが、)様々な具体的な事実は、ここで語られる範疇の特殊な事例として遍く説明されるということであると理解できよう。

 第一に「窮極的なものの範疇」(The Category of the Ultimate)があり、第二に「存在の範疇」(Categories of Existence)、第三に「説明の範疇」(Categories of Explanation)、そして第四に「範疇的拘束」(Categorial Obligations)が挙げられる。今回からは、これら諸範疇を一つずつ見ていくことにしたい。*1

 最初に挙げられた窮極的なものの範疇*2には、「創造性」(creativity)、「多」(many)、「一」(one)の三つが含まれる。しかし留意したいのは、おそらくこの三者がそれぞれ独立して窮極的なものと考えられてはいないだろうということだ。他の三つの範疇と比較しても、一つだけCategoryと単数形で示されていること、そしてそれらは一様に事物、存在、実質(thing,being,entity,)に内蔵(involved)されるものとしてそれら諸実質のうちに相互に結び合わされているものとして考えられていることは注目に値するだろう。

 そのような窮極的なものの関係、三位一体の相互依存関係は、「一」について、あるいは「多」についてのホワイトヘッドの言に明らかだ。「一」は、端的に「ある実質の単一性(singurality of an entity)を保証する(stand for)」ものなのだ。ここにおいては、単に数的な「一」が問題となるのではないし、冠詞や指示詞によって左右される「一」が問題となるのではない。ここで考えられている「一」とは、より広く普遍的な意味での「一」であり、私はそれを一種の「対象性」と捉えたい。

 私がここで「対象性」というのは、単にそれが「何か」であるという意味においてである。an apple だろうが、two applesであろうが、それは我々にとって「何か」である。またthe present king of Frenchも、what I amも「何か」であることは否定できないだろう。それはある種「素朴な統一性」ともいえるかもしれない。我々はあらゆるものについて、それを「何か」として扱っている。*3

 ホワイトヘッドの言う「一」をこのようなものと解して差し支えないならば、次の章句の理解も些か助けられることと思う。

「多」という名辞は、「一」という名辞を前提し、「一」という名辞は「多」という名辞を前提にしている。*4

「多」というものは、相互に区別される「何か」が「多」であるという意味において「多」であるのだろうから、その意味で「一」を、「何か」という弱い「対象性」を前提していると考えられそうだ。しかし「一」は、「多」を前提とするだろうか。

 この点に、つまり「多」から「一」への関係を明らかにするうえで重要な役割を果たすのが、第三の窮極的な要素である「創造性」であろう。

それ【創造性】によって、離接的な仕方で宇宙である(universe disjunctively)「多」 が、接合的な仕方で宇宙である(universe conjunctively)一つの現実的契機となる。「多」が複合的統一性(complex unity)に入っていくということが、事物の本性の内にある。

  与えられた現実における「何か」という統一性(一)は、個々別々の、離接において成り立った諸現実(多)から独立してはおらず、寧ろそのようなものの結集と相互の関係の総体として一なる現実が理解されねばならないことが言われている。このような多様なものとの関連が失われていないからこそ、統一された存在ないし現実が「離接的な多様性」(disjunctive diversity)を表現するものとして、つまりある固定的な性質を一様にもつものではないものとして考えられるのであろう。

 また、

「創造性」は」新しさ(novelty)の原理である。現実的契機は、それが統合する「多」のうちにあるどんな実質とも区別された新しい実質である。

 といった陳述から、単なる多の寄せ集めとして実質が捉えらえているわけではないことは確かである。しかしながらこの主張を、所謂メレオロジー的な発想と結びつけるのは些か早計かもしれない。直観的な言い方になってしまうが、ホワイトヘッドの考える現実においては、メレオロジーがしばしば問題とするような、「構成する部分を完全に共有する」状態というものが全く考えられないように思われるからだ。

 以下では倉田剛氏による『現代存在論講義Ⅱ』*5において、物質的対象の構成を巡る議論で用いられる例を取り出して考えてみたい。その例はこうだ。

ある彫刻家が月曜日に粘土の塊を購入し、それを作業台の上に置いた。彼は一日を費やして火曜日に愛犬のポチの像を完成させたが、満足の行く出来ではなかったので、水曜日にそれを潰して元の粘土に戻してしまった。 

この後本書では、それぞれ「粘土の塊」、「ポチの像」、「元の粘土」の組成を同一のものと見做したうえで、それぞれの対象が区別されるか否かの議論に移っている。しかしホワイトヘッドは、おそらくその前提に納得しないのではなかろうか。ホワイトヘッドは、そのような物理的な構成を行う要因を非常に拡張している ように思われるからだ。*6

 まず最初の粘土の塊についてだが、例えばそれはある彫刻家の「何を作ろうかな」といった思案と関係し、それを加味して構成されていることが考えられる。しかしポチの像においては、もはやそのような迷いは消え失せ、彫刻家の「ポチを作ろう」という意志との関係を伴って構成されるものであるだろうし、また元の粘土に戻る際は、彫刻家の「うまく作れなかった」という失念との関係で構成されるだろう。つまり、それぞれはそれぞれの構成要素を決して同じくしていない。むろんこの構成要素は彫刻家の感情のみに制限されることはなく、幾多もの環境的要因も物質の構成を担うだろう。

 ここにおいてまさに、先述した離接と接合が見られる。彫刻家の感情、粘土、そして他の環境的要因(所在、時間、認識)など*7も、それとしては区別される多であるが、それらの複合的な統一によって各々の新しい対象が構成されているからだ。

 ただし、そこで構成される諸対象、諸現実が、そこにおいて完結し、確定的な意味を持つことをホワイトヘッドは棄却するであろうことを指摘しなければならないだろう。

新しい実質は、それが見いだす「多」の共在すること(togetheness)であると同時に、またそれが残存する(leaves)離接的な「多」のうちの一である。

 つまり、先の例を使って言うならば、「何を作ろうかな」と迷いながら購入した粘土の塊は、そのような迷いが「取り払われる」という形において時間的に未来の出来事の構成に関連するのである。彫刻家は、何に使うか迷っていた「その」粘土に関して決断をし、ポチの像を作り上げているに違いない。ここにおいて、ホワイトヘッドが事物をそれが構成される過程と同一視していることがやはり確認される。粘土の塊という事物は、それが時間的過去から構成されるという事実からも、またそれが時間的未来において果たす機能、つまり新たな実質を構成する多数の要素の一員となるという機能からも度外視して考えることはできない。そのような「継承」のプロセスとして現実が捉えられているのだろう。

 となると先の『講義』で問題となっていた事物の「同一性」の問題はどうなるのだろうか。その同一性はいわば「プロセスの同一性」、あるいは諸現実的実質に対する「機能の同一性」の問題に転換されるのだろうか。ホワイトヘッドは、後の「範疇的拘束」で「客体的同一性」(objective identity)に触れ、さらにこれは本書において大きな役割を果たすであろうことが予測される。引き続き注視したい。

 それでは。

 

*1:説明の範疇は全部で27個(!)ある

*2:長いのでCUとでも表記しようと思います。

*3:私の拙いカント理解では、彼が『純粋理性批判』の中でいう「超越論的対象」は、これに近いことを言っているのではないだろうか。我々は人間理性によって、あらゆる諸表象を不可避的に「何か」として受容しているということ、我々の方が所与に対し弱い対象性を付与しているということ。

*4:プラトンの『パルメニデス』を想起させる。

*5:

www.amazon.co.jp

*6:この本は昔ザッと読んだきりだったが今読めば色々発見できそうなのでこのブログにも何か書くかもしれません。

*7:事物の組成に時間が含まれるという所謂四次元主義を思わせる。