マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第8回〉1-2-1

 範疇の構図(the categoreal scheme)と題される第一部第二章は、有機体の哲学における「観念の素描」(sketch)であることがまず確認されねばならないだろう。序文でも、第一部における「要約的陳述」は、実際に経験的な諸問題を検討し、そこに整合性を見ていくような、第二部以降の試みなしには「実際上理解しがたい」とまでホワイトヘッドは注意している。したがって、十全な理解は、第二部以降で構図が「応用」されるのを待たねばなるまいが、さしあたって本書を読むにあたって考えられたことをまとめ、のちにそれが議されることにしたいと思う。

 とはいえこの第一節では、まだ具体的な構図の中に足を踏み入れてはいない。ここでホワイトヘッドが行っているのはさしづめ、構図を渡り歩くうえでの基本的な装備の確認、重要な理念や用語の提出であろう。「現実的実質」(actual entity)、「抱握」(prehension)、「結合体」(nexus)、「存在論的原理」(ontological principle)の四つの観念、(殊に前の三つ)が、ここでは要約的に語られる。

 まず現実的実質*1について

【現実的実質は】世界がそれらでできているところの、究極的にリアルな物事(the final real things)である。リアルさにおいて、それを凌駕するものは決してない。諸現実的実質は、相互に区別される。【例えば】神も現実的実質である。そしてまた、遠く離れた空虚な空間にいて最も些細に弱くはかなく存在するものも現実的実質である。そこには重要さの程度(gradations of importance)があり、その作用における差異(diversities of function)が確かにある。しかし、そのような諸現実が遍く示しているところの原理(principle)に関して言えば、全ての諸現実的実質は同じ水準(level)にある。究極的な諸事実(final facts)はみな、現実的実質である。そのような諸現実的実質は、複合的(complex)で相互依存的(interdependent)な経験の滴(drops of experience)である。*2

ホワイトヘッドはこのように言うが、ここにおける、あるいはホワイトヘッドの全ての思索における「リアル」(real)ということの解釈は巨大な問題となるだろう。とりあえず何かしら「ある」ものとして経験されるものを遍くすべてリアルな物事と捉えることもできるだろう。それはただ想像されたものでも虚構のものでも構わないかもしれない。そこにはホワイトヘッドも言うように「重要さ」や「機能」にこそ差異が認められるが、それが何らかの意味で「ある」というリアルさを共有することは確かにそうかもしれない。

 ホワイトヘッドにおけるリアルさは保留にして、今度は現実的実質がそれ自身の性格を決定するような「抱握」という概念というものに、可能的に分析されるということに着目したい。

 抱握については、

現実的実質の「諸抱握」への分析は、当の現実的実質の本性における最も具体的(concrete)な要素を示す。この分析は現実的実質の「区分」(division)と呼ばれる。各現実的実質は不定数の方法で【諸抱握に】「区分」しうる。そして各々の「区分」によって、諸抱握の【現実的実質における】領分(quota)が決定される。抱握はそれ自身に現実的実質の一般的性質を再現(reproduce)させる。〈中略〉現実的実質のもつ性質は、遍く抱握に再現される。*3

と語られる。ここでいわれている「具体的」ということの意味は、第四回で少し見たような、「具体者取り違えの誤謬」に注意して理解せねばならない。抱握という作用によって、ある他の現実的実質の性質を、当の現実的実質に「再現」させる形で、つまり他のものとの関連の中で、当の現実的実質の本性が練り上げられているのであるから、真に具体的なものは、ここにおいては、単に現にあるものではなく、それと他の諸現実(external world)との交じりの総体であると言われねばならないだろう。

 また、ホワイトヘッドが抱握という作用を形容する際に多用する表現の一つに「ベクトル性格」(vector charactor)というものがあるが、それは他の諸現実を当の諸現実に「向けて」再現させるという性格、あるいはその現実に沿うように「転換」するという性格を特徴づけているように思われる。

 ホワイトヘッドは、抱握のそのような性質から、ある現実的実質における「諸現実的実質の共在」(the togetherness of actual entities)という発想を導き出している。現実的実質は、その構成からして、つまりそれが抱握という事実の総体であるという意味で、他の現実的実質を抱握した現実的実質と言われ得るであろう。このような諸現実的実質の混ざりを、ホワイトヘッドは「結合体」(nexus)と呼んでいる。

 この結合体を考える上で私には、先述したような抱握の「領分」(quota)が重要性を持つように思われる。諸実質は様々な仕方で、しかも不定的に抱握されうるのであり、ある一つの実質はそのような諸抱握の総体であるのだとしたら、その実質はそれが含む抱握の「布置」のようなものに他ならないのではなかろうか。そこにおいては、抱握によって再現される他の現実的実質と、当の現実的実質との相互関係に依って動的に決定されるような、諸抱握のネットワークが広がっており、それが我々に経験される現実を作り上げているのではないだろうか。

 用語や理念的なものの確認、ないし想像する回になった気がします。次回からはいよいよ構図の探索です。それでは。

*1:ここにおいて「現実的契機(actual occasion)」と特に区別はされていない

*2:拙訳。【】内筆者。p18。

*3:一部拙訳。【】内筆者。p19