マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第7回〉1-1-6

「目的」と「選択」、その過程としての現実

 この節はホワイトヘッド哲学全体にとって重要となるかもしれないモチーフが提出される。それは端的に言えば経験される現実世界における「目的」に適った「選択」、あるいは「解釈」といったものであるといえよう。

 ホワイトヘッドはやはり、哲学が持つ「野心的すぎる」という欠点をこれまでの節で見てきたような「適切なテスト」にかけ続けることで解消し、哲学を擁護する。そのような哲学の批判者として(また!)取り出されるのがフランシス・ベーコン*1なのだが、先述したモチーフはベーコンをはじめとする科学者による現実の分析に欠けており、かつ哲学がそれを救うべきであると言われる。第二節においてはそれが「想像力」の欠如であることが言われていたが、結局それは何の想像力なのか、それがここで確認される。

【ベーコンによる哲学に対する】非難にとって不運なのは、それを体系の中の一つの要素として解釈することなしに理解しうるような、bruteで自己完結的な現実世界の出来事はあり得ないという事実である。我々が我々に直接経験されるものとしての現実世界を記述する時、我々はその直接的な事柄を離れ、それと同時的な【他の】事柄や、それの過去あるいは未来の事柄との関連、そしてその当の事柄がそれであるために限定された形ではあるが【その限りにおいて】普遍との関連に導かれる。*2

つまりある直接的な現実世界の記述は、不可避的にそれを超え出た領域、可能的な現実やそれが表現する限りでの普遍的なものが構成する体系的な総体についての記述であること、それこそがホワイトヘッドの言う「整合的」な記述であり、形而上学が目指すものであり、科学はそのような広がりを持った現実に対する「想像力」を欠くのだと言いたいのだろう。

 次にそのような現実のそれを超え出たものとの関連の内実が素描され、そこで「目的」と「選択」という概念が導入される。

各々の現実的契機(actual occasion)はそれがそこから生じたところの現実に対して、それに付加する形で新たに現実を形成するような要素を導入する。そしてその要素こそが、その契機の際立った個体性を深めるのである。〈中略〉このような個体性を伴ったより高度な(higher grade)*3現実的契機は、それが端的に現実しているために、【それがそれとして現実するために携わった】諸現実の全体(totality of things)と関連している。しかしながら、その当の現実的実質は、それ特有の深さ(depth)を、自身の目的に適うような選択的強調(a selective emphasis limited to its own purpose)を【それがそこから現実した元の諸現実の全体に対して】付すことによって獲得するのである。*4

ある現実的契機、なんらかの現実(世界)は、それが現実するために他の何らかの事柄に不可避的に連関する。その連関の仕方が、ここで語られているように思われる。つまり、それがそれとして現実したというその点においてあらゆる他の諸現実から区別されるけれど、それは他の諸現実から独立に生ずるのではない。むしろ他の諸現実から、要素を「選択」し、それを当の現実の中に帰しているのであり、そこにおいて独自の「深さ」*5

を生んでいる。そしてその選択は、なにかしらの「目的」に導かれて起こるものなのだともいわれている。 哲学の「課題」としてホワイトヘッドが言うのは、このようにある目的に根差した選択によって現実するような過程の「総体を回復」することである。ある直接的な現実は、そのような総体からの選択と強調でしかない。そのような現実というものの一面をのみ分析するのではなく、むしろある個的な現実的契機が独自の仕方であらゆる現実と関わるという動的なプロセスの総体をつかむことが、哲学が背負うべき責務であると考えられるだろう。

 これで一応第一部第一章を終えたことになります。次回からはいよいよこれまで再三ホワイトヘッドが言ってた「構図」とはどんなもんなんじゃいという内容に入っていくわけです。それでは。

 

*1:日本語表記が揺れていて、第二節では「ベイコン」になってた。ロジャー・ベーコンとの差異化のためかと思われたが帰納法の話なのでどちらもフランシスの方だろう。

*2:拙訳。p14【】内は私が内容理解のために補ったもの。訳していないbruteについては次の注を参照。

*3:私としては、先の引用でそのままにしておいたbruteはこことの対比で理解できるかなと思う。現実的実質が高度であるといわれるのは、のちに出てくるような「目的」を持ったうえでの「選択」ができるような、半ば「理性的」ともいえる性格を現実というものが持つからだが、そのような理解が可能ならば、bruteは「非理性的」、つまり選択とか目的とかとは縁遠いという意味でとっていい気がする。そうするとbruteな現実をさっきの引用でホワイトヘッドは否定していたわけだから、ちょっと危険だけど「汎主体主義」とか「汎心論的」な現実観ともいわれ得るのかな。

*4:拙訳。p15。【】内は私が内容理解のために補ったもの。

*5:「深さ」(depth)という表現は興味深い。実体的なものの連続とか堆積として現実を見ているというよりも、なにか流動的な、情報のようなものを取り込み、あるいは除去して、それを自身の形式(グラデ―ション)で表現する、というイメージ?