マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第6回〉1-1-5

言語表現の欠陥と命題

 第五節の主題は、言語という表現*1について、特にその形而上学における「道具」としての不完全性であると解されるだろう。ホワイトヘッドは、「経験された事実についての人類の一般的合意が、言語に最もよく表現されること」を認めたうえで、それが形而上学に要求されるより広い一般性を「十全に」表現することは不可能だと主張する。

 しかし、「形而上学の一つの実際上の目的は、命題の的確な分析である」という主張にも明らかなように、ホワイトヘッドが言語や命題といったものの有効性を棄却しているのではないことは留意しておく必要があるだろう。むしろホワイトヘッドの哲学において命題というものは、非常に重要な立ち位置を獲得しているように私には思われる。*2言語表現(verbal phrase)が問題となるのは、それがホワイトヘッドの言うところの命題を十全に表現することができていないという点であろう。*3そしてその理由として、命題というものがそれとして完結する自体的事実では決してなく、それ以外のものとの関りから切り離せないものであることが挙げられている。

肝心なことは、すべての命題は、ある一般的で体系的な形而上学的性格を展示している宇宙に関わっている(refer to)、ということである。こうした背景を度外視しては、命題を形づくっていくバラバラの実質と、全体としての命題は、決定的な性格に欠けるのである。何ごとも限定づけられ(defined)てはいない。なぜならすべての限定づけられた実質は、それに必須な地位を供給するために、体系的宇宙を必要とするからである。 

 命題の「決定的な性格」 は、それが関連する限りでの宇宙全体を表現しうるという点に尽きる。その機能を言語表現によって閉じ込めてしまうこと、つまりそこで命題を構成する諸実質をそれぞれ独立した実質として認めてしまうことをこそ、ホワイトヘッドは批判しているのだろう。そしてそれに関してホワイトヘッドが挙げる例は、語用論的な雰囲気をまとったものとなっている。

(「ソクラテスは可死的である」という命題について)例えば、ある文で哲学者に言及している「ソクラテス」という語は、別の文で同一物に言及する「ソクラテス」という語よりも、一層密接に限定された背景を前提とするある実質を意味するかもしれない。「可死的」という語も類似の可能性を与える。

  つまり言語で表現されたもののみで命題の完全な表明を試みることは、命題が本来持つであろう「広さ」を棄却してしまうということだろう。この意味において、言語はそれが単純な構造の中に持ちうる複雑で多様な意味作用の「省略以外のものでありえず、直接的経験との関連においてその意味を理解するためには、想像力の飛躍を必要とする」のである。

 我々がそこから出発するしかないこの言語表現がそれ自体では曖昧であることを受け入れることは、ここまで再三確認してきたホワイトヘッドのプラグマティックな態度としても理解できる。この節においてホワイトヘッドは、言語表現を一般的真理への「近似」に向かって磨き上げていくことの過程で必要となるものとして、明示的に「プラグマティックなテスト」について言及している。

 

 

*1:ホワイトヘッドのいう言語表現が、果たして自然言語のみを指すか、あるいは人工言語、ロジックの言語も指示するかは疑問である。本書には所謂論理記号は出現せず、先述したような自然言語で書かれた諸命題、殊に主語述語のシンプルな関係を持った命題が分析されるのみである。

*2:実際本書においても、9章をまるっと命題の分析に費やしている。

*3:言語と命題は、ホワイトヘッドにおいて区別されているという言い方も可能だろう