ホワイトヘッド『過程と実在』〈第15回〉1-2-2 説明の範疇xvii
諸実質の「コントラスト(contrast)」
これまでの数回に渡って、当ブログではホワイトヘッドの用いる「統一(unity)性」という概念の持ちうる多義性を見てきたということができよう。まず第一にそれはある単一の現実的実質の内におけるいわば「主体的な統一性」であった。また第二に、相互に区別される諸実質から成る結合体における統一があることも見た。ここにおいてその統一は、その結合体が志向する、目的として目指す方向において動的に統一されているのではないかと私は考えた。*1
今回扱う「コントラスト」という概念は、これらに続く第三の統一性であると考えられる。第十七の説明は以下のように始まる。
ある感じ(feeling)にとって 与件(datum)であるものは何でも、感じられたもの(felt)としての統一性をもっているということ。こうして複合的与件*2の多くの構成要素は、統一性をもっている。この統一性は諸実質の「コントラスト(contrast)」である。
感じる主体、抱握する主体の内での統一性が強調されていた第一の統一性とは対照的に、ここで「コントラスト」と呼ばれている統一性は、ある諸実質が他の諸実質に抱握されること、いわば「客体化」されることにおける統一性であるといえるだろう。
所与というものについて、それはある意味では完結した一回的なものであると考えることは可能だろう。最も素朴な対象性、統一性として、所与には不可避的に「何か」という述語づけが可能でなければならない。その「何か」としての統一性が一回的なものでしかあり得ないのは、統一性とは相いれない意味での煩雑さには、「多くの統一性」が必要となるからである。つまり、差異が見受けられる複数のものは、それぞれがそれぞれで統一されているということを前提とする。所与、例えば我々の知覚における所与というものを考えた場合、直接的に我々に現れるものは、概念的な判断を含んでおらず、いわば「未区分」の状態にあるといえるだろう。しかしながら、我々には「何か」が現れていることだけはそこにおいて確かなのであって、これが所与の素朴な対象性、感じられたものとしての統一性であるだろうと考えられる。*3
しかしホワイトヘッドにおいては、このような統一性を人間理性による認識においてのみ考えていたのではないだろうということは注意せねばならないだろう。ホワイトヘッドにおいて認識、より正確に言えば「感じ」の主体は、必ずしも人間に限られない。むしろ主体は人間を「含んだ」有機体としての現実(的実質)そのものであるとさえいえよう。さらに、そのような感じ、抱握作用が諸実質間で起こるという出来事、プロセスとして現実世界を説明しようとするホワイトヘッドの挑戦は、ある意味で、主体を人間でなく現実的実質におく認識論と、現実世界に何が存在しているかを示す存在論の区分を、もはやなきものにしてしまうのかもしれない。具体的事実とは諸抱握であり、主体によって獲得された第一の意味での統一性が、また他の実質に客体化されることによって第三の統一性を獲得するという、いわば現実的実質間での認識的な出来事の総体であると考えられるからだ。
諸現実が認識(抱握)し合うということ
認識論的概念から現実の存在論的構図を描くものとしてホワイトヘッドの手法を評価できるならば、先の第十七の説明に続く些か面食らってしまう以下の記述も理解できるように思われる。
ある意味でこれ[コントラストという概念]は、存在の範疇に無限数があることを意味する。諸実質をコントラストへと統合(synthesis)することは、一般に、新しいタイプの存在(new existential type)を生み出す(produces)のだから 。
問題となるのは、諸実質間の抱握によってなぜ新しい存在が産出されるかという点になるであろう。私は、ホワイトヘッドがそもそも、認識という出来事をある種の生成変化、存在する何かの運動と同一視しているのではないか、と考える。つまり、ある実質が「何か」を抱握し、自身とのコントラスト、つまりその当の主体とは区別される「何か」を感じる際、それを感じていない当の実質から、それを感じる新しい実質への異化作用があること、またあるいは、そのように感じるものとしての新たな主体が「生成」してさえいると考えられるのではないか、そのような認識の創発をこそホワイトヘッドは存在の創発と同一視しているのではないか、と私には思われるのだ。
この認識という作用と存在の同一視*4は、かみ砕いて言えば、あらゆるあるもの、すなわち現実は、常に何かを抱握して(認識して)いるものとしてあり、またそうでないことは不可能であるということになろうと思う。このようなアイデアは、意外にもすでにプラトンの『テアイテトス』においてみられる。*5
このわたしが、まさにこのとおりのままで現状と別のなにものかを知覚するものとなることは、けっしてないのである。なぜなら、「別のものを知覚すること」とは、現状と別の知覚にほかならず、その「現状と別の知覚」は、知覚者自身をも現状と別の性質のものにして、結局「現状と別のもの」にするからである。また、わたしに作用するかのワインも、異なるものと遭遇する時には、現状と同じ子どもを産み、現状通りのもとの性質のままになるということは、けっしてない。なぜなら、別のものからは別の子どもを産むのであり、それゆえ自らも別の性質のものとなるはずだからである。*6
端的にいえば、認識という出来事はその主体を否応なく変更する出来事であり、そこには新たな存在が生成しているとさえいえるのである。*7諸現実の抱握プロセスにおいて、「別のもの」は絶え間なく渡来し相互的な作用を果たすことになる、そこではしたがって、様々な強度で様々な諸実質が抱握されているのであって、新たな諸実質が生まれ続けるのである。
今日はこの辺にします。