マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第16回〉1-2-2 説明の範疇xviii

存在論的原理(ontological principle)

 第十八の説明は最も長い。したがってここでは幾らか細分して注釈していくことになろう。ここでは最初に、「存在論的原理」なるものが導入される。*1

 生成の過程が、任意の特殊な事例において従うすべての条件は、その根拠(reason)を、その合生の現実世界のうちにある或る現実的実質の性格のうちか、それとも合生の過程にある主体の性格のうちかにもっている。説明のこの範疇は、「存在論的原理(ontological principle)と呼ばれる。それはまた「作用因ならびに目的因の原理(principle of efficient, and final, causation)」とも呼ばれうる。この存在論的原理が意味するのは、現実的実質のみが根拠だということである。したがって、根拠を探し求めるとは、一つないしそれ以上の現実的実質を探し求めることである。その結果、過程にある一つの現実的実質によって満たされる条件は何であれ、他のある現実的実質の「リアルな内的構造(real internal constitutions)」についての事実、ないしその過程を制約しつつある「主体的指向(subjective aim)」についての事実を表現している。

  この章句は、(端的には)すべての現実的実質は他の諸現実的実質によって用意された何かしらの枠組み、条件に基づいて、それらをある意味での「根拠」として持って存在している、ということが言われていると解釈できるだろう。この引用では著作集版の訳をそのまま使ってreasonを「根拠」としているが、「説明」と訳すことも些か有効かもしれない。当の実質の説明を求めるとき、それはすなわち他の諸現実的実質の説明を求めることに他ならないということ、それがここでは、「ある一つの現実的実質」が他の実質の「リアルな内的構造」*2や「主体的指向」の表現であるといわれていることの意味であるだろう。ここにおいて興味深いのは、「存在論的原理」が「相対性原理」の裏返しに思われることである。ある一つの実質の説明が不可避的に他の実質の説明を要請するという事実と、ある一つの実質が不可避的に他の実質の生成への過程であるという事実との間に、どのような差異があろうか。この二つの原理は、相成ってホワイトヘッドの学説において以降重要性を持ち続けるため、注視したい。*3

命題と主体的指向(subject aim)

  後半部分では重要な命題概念についての付言がなされている。

「命題」の通俗的な論理的説明は、宇宙におけるその役割の制限された面、つまり、命題が、感じの与件—その主体的形式が判断(judgements)であるような感じの与件—であるときのみを表現しているに過ぎない。命題の第一義的機能が関連をもつのは感じの誘因(lure)としてである、というのが有機体の哲学における本質的学説である。

ホワイトヘッドはここで、命題が必ずしも論理的な判断を含むものであるとは限らないことを主張し、一般的な命題概念の「拡張」を宣言しているといえよう。Aという命題があって、それに関してA is true/falseという言明は判断である。ホワイトヘッドのいうことは、恐らくこの命題Aの現実における感じられ方、つまり諸実質に抱握される仕方は、このような真偽の判断のみに限られるのではないことを強調したいのだと思われる。

 ホワイトヘッドは、寧ろ命題が諸実質の間で様々な差異があるところの「主体的指向(subject aim)」に差配される仕方で、多様に感じられるという事実を重視していると考えられる。ホワイトヘッドがここで用いている例でいえば、ある命題を「冗談を楽しむ」という主体的形式や、あるいは「畏怖、嫌悪、憤怒」といった指向を伴って感じるという事実が考えられるだろう。またホワイトヘッドは、そこにおいて命題が果たす、そのような様々な主体の「情緒」を生み出す「誘因(lure) 」としての機能の方に注目している。

*1:この用語自体は、既に第一部第二章で登場している。ただしそこでは主にジョン・ロックの用いた「実体」、「力能」という概念からの敷衍によって存在論的原理の部分的な説明が付されるにとどまっている。その説明の検討、殊にロックの認識論との比較は重要なテーマとして他の機会に設ける必要があるだろう。第十八の説明の後半部分でも、ロックとの類似性は指摘されている。

*2:具体的には別の機会に、ここにおいてまたロックが関わってくる。

*3:相対性原理についてはここで少し話してます

timaeus.hatenablog.com