マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第5回〉1-1-4

 この節は主に、科学と哲学との関係、あるいは際について語られる個所となっている。しかしながら私としては、ここにおけるホワイトヘッドの主張には当初少しビビってしまった。それは「そんなことまで言えてしまってよいのか?」といったたぐいの疑念であった。

 本節は短いし、その趣旨も明快ではある。科学(ホワイトヘッドは「特殊科学(special science)」と呼ぶ)は「事実の一つの類」のみを追求するが、哲学にいたってはそうではないこと。つまりその事実を説明する類、範疇がより大きな一般性に向かって「発展」していくことがまず言われる。後者の見解に関しては、これまでも言われてきたような形而上学的構図の改変可能性が、再び確認されたと解して差し支えないだろう。しかし前者の主張は、一概にそうとも言い切れないような気がする。もし仮に、このホワイトヘッドの批判が、科学などの哲学とは区別される諸学問が、それぞれ単一の対象を、単一の体系の中で捉えていることに向けられているのであれば、それは哲学に向けられてもおかしくないだろう。哲学は現実世界という対象を、形而上学的構図という体系によって説明しようと試みるものであるからだ。

 たしかにその体系は、ホワイトヘッドによって絶えず現実世界との適合可能性によって問い直されるから、それはもはや単一の独断的な体系ではなくなっていくこと、そこにこそ科学との根本的な差異があるのだと捉えることもできよう。しかし私には、むしろ科学の方に絶えず自身の体系を問い直す性格があるように感じた。ホワイトヘッドの記述に対する違和感は、端的に言えばここにある。

 どうやらその違和感は、私の「科学的手法をポパー反証主義的科学観と半ば同一視してしまう傾向」に起因することが発覚した。ポパー反証主義を打ち出した『探求の論理』(Logik der Vorschung)を著したのは1934年であり、『過程と実在』から16年を待たねばならない。したがってホワイトヘッドポパーの主張を確認していないし、科学がいわば反証可能性をその本質として備えるという発想に乏しかった風土に身を置いていたのではなかろうか。

 ポパー反証主義を唱えるようになったのは、どうやら精神分析という体系、殊にアドラー精神分析が、「何でも説明できる」ことへの違和感であったらしい。*1この違和感は、ホワイトヘッドの先の科学への批判と近いものを感じる。*2様々な事実が、その学問の提出する「一つの類」に余すところなく回収されてしまうことは、むしろ現実世界をその体系としてしか見ていないこと、つまり「半面だけの真理」を形成しているに過ぎないことをホワイトヘッドは強調する。哲学の使命は、そのような一面的で特殊な狭い真理に留まらず、それと不可避的に関連付けられる「より広いもろもろの一般性」を追求することであることが繰り返し述べられている。

 今回は短いがここまでです。それでは。