マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

客体化についての覚書と、決断との関係について少し

 客体化について、それが最も原始的であまねく全ての契機の生成に取って根源的なものとしての「物的感取physical feeling」と関連させて述べられているところをまとめる。

 まずこの物的感じは、ある契機がある契機を抱握することである。これが全ての契機に取って根本的なのは、それが不可避的だからである。このことは、ホワイトヘッドの「存在論的原理」そして「相対性原理」のそれぞれの帰結から得られる。つまり、「ある契機に先立つ全ての契機は、その契機に感取される」こと、すなわち「ある契機に先立つ全ての契機は、その契機をなんらかの意味において構成すること」がこの二原理から帰結する。もっと言えば、先立つ契機は後続する契機に対して因果的な効力を発揮しているとさえ言える。したがって物的感取は「因果的causal感取」とも呼ばれる。

 しかしながら、このことから、新しい契機は古い契機全ての単なる再生であるということは帰結しない。寧ろこのようなことはありえないだろう。現象学の文脈でよく参照される例で考えてみる。例えばメロディの知覚は、たった今聞いている音の聴取経験に、過去の音を知覚するという契機が作用していることの好例になる。しかしこの現象は、過去に聴いた音という先行する契機が現在に「再生」されているのでは明らかにない。先立つ音は過ぎ去っているものとして、現在の音をメロディという秩序のもとに聴こえさせている。

 ホワイトヘッドが、知覚におけるこうしたある種の「反復」を語る際にもちいているのが「客体化」という語である。具体的には、先立つ契機Aが後続する契機Bに客体化されるとき、Aは自身を構成する諸々の感取を媒介してBに伝達されるというのだ。ただしこの媒介に先立って、契機と契機はより直接的な関係を持っている。それが先に見た因果的感取による関係である。因果的感取によって解決されるのは、ある契機に「何が与えられるか」という問題である。契機に与えられるのは、不可避的に与えられる先立つ契機に他ならない。他面客体化によって解決されるのは、「ある契機がどのようなものとして与えられるか」という問題である。*1先立つ契機Aの全体が、後続する契機Bに与えられるのではない。Aは、それがある感取をもっているものとしてBに感取される。ここにはある「抽象」が起こっているのだとホワイトヘッドは強調する。契機Aは、自身を構成する多くの感取に分析可能である。そして、そのような多くの感取からのあるものは除去されてBに与えられる。この抽象のプロセスを描くのが客体化である。

 重要なのは、ある契機からある契機へと伝達されるのは先行する契機に内在するいくつかの感取であって、契機そのものではないということである。しかし感取というものに本来的に備わっている固有性、つまりある契機に「ついての」感取であることのために、因果的な効力がなくなるわけではない。あくまでも、ある契機がもつ諸々の側面が、ある契機に客体化されるのである。このことを、ホワイトヘッドは「パースペクティブ」という語で表現する。先行する契機Aを構成する感取のうち、ある感取Xを通して新しい契機Bに客体化されるとき、XはAの、Bにとってのパースペクティブだとされる。

 問題となるのは、この抽象作用の具体的な内実である。それは新しい契機の自発性に由来するのか、それとも古い契機によっても差配されるものなのだろうか。私の解釈では、古い契機における決断が、新しい契機への客体化を差配するというものである。これは後に詳しく見ることだが、決断はあるふたつのタイプを持つ。それは「離向aversion」と「対向adversion」である。これらの訳語は難しいが、それぞれ否定的な評価と肯定的な評価と言った意味に対応する。ではこれは何に対する評価なのかというと、ホワイトヘッドの主張によれば、ある契機における決断は「それ自身の内的な決定に対する反応reaction」*2なのだから、満足の段階において決定されたその契機という事実に対する評価、もっといえば、自身を構成するある感取に対する評価だといえよう。

 さらにホワイトヘッドは、明らかにこの離向と対向とが客体化に際して機能することを示唆している。そこでは、ある感取に対する離向は、「その感取のもとにin the guise of その感取の主体が客体化されることを妨げるinhibitsか弱化attenuatesし」、したがって「その主体が未来に客体化される手段の一つの可能性を除去eliminateする」とされている。*3

 このあたりをもう少し掘り下げれば、決断と客体化の関係ももう少し鮮明になる気がする。

*1:以前の私の主張では、客体化によって「先立つ契機が後続する契機をどのような意味において構成するか」という問題が解決されるとも誤解されかねない。しかしそれはおそらく間違っている。ある契機が客体化されることによって諸々の感取が反復されたとしても、その感取はそのままの形では実現され得ないかもしれない。というのも、他の契機からの客体化も被るかもしれないし、それらの諸感取との相互作用も加味しなければならないからだ。客体化が解決するのはあくまでも契機における与件の問題であり、その与件をいかに処理して新しい契機を生じさせるかは契機における満足の問題である。これらはそれぞれ、移行と合生ということなるプロセスに属することは以前に見たとおりである。

*2:PR28

*3:PR277