マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第32回〉2-2

延長的連続体(extensive continiuum)

 延長的連続体と呼ばれる概念には、ホワイトヘッドにおける前期から中期にかけての仕事、殊に相対性理論に代表される物理学に従事していたという事情が意味を持っているらしい。しかし私には物理学の素養が著しく欠けており、この概念を彼の『過程と実在』以前の専門的な記述と関連させて子細を述べることはかなわないだろう。

 しかしこの概念が、どうやら物理的な「場」のようなものを指すらしいことはホワイトヘッドの記述からみてとれる。ホワイトヘッドはそのような「物理的場」からの抽象によって、個々の時間化ないし空間化された実質が生じてくることを強調する。換言すれば、それは原子的な諸現実態に「可分(divisible)」ではあるものの、それが現実にどのように区分されるかは「不定(indefinite)」であるのだといえよう。

 これらのことから、さしあたって延長的連続体はこれまでの言葉遣いで言えば「潜勢態(potentiality)」の範疇のうちに認めることはできるだろう。「この延長的連続体は、すべての潜勢的な客体化がその場所(niche)を見いだす一つの関係的な複合体である。それは過去、現在、未来にわたって、世界の全体の根底にある。」

 しかしながら、それ自体では未分化のこのような延長的連続体は、決して無際限の可能性といったものではない。これまで何度も付言してきたことであるが、潜勢的な領域は常に現実的実質による制限を免れないのである。それはある現実的実質から生じるがために「リアル」であり、またそのような個々の実質に由来するがために、ほかならぬそれぞれの実質が共有する場としての性質が確約されるのである。

 では具体的に、異なる諸実質がいかなる意味においてそのような延長的連続体を共有し、そこにおいて「連帯性(soliditality)」を獲得するという事態が可能になるのだろうか。このところの理解に際して肝要であるように思われるのは、「パースペクティブ」という概念である。

延長的連続体は、ただちに、客体化における最初の要因となる。それが提供するのは、現実的実質がそれによって抱握し合うすべての交互的客体化に示されている、延長的なパースペクティブの一般的構図である。こうして延長的連続体は、それ自身、全ての現実的実質の交互的抱握に例証されねばならないリアルな潜勢態の構図である。

 この引用で示される「パースペクティブ」の解釈は難しい。おそらくそれは何かしらの延長的な関係、端的に言えば「現実的実質相互間の位置関係」のようなものであるように思われる。位置という言明によって殊に空間を指すように思われるが、注意すべきであるのは、この領域において未だ時間や空間といった区別さえも生じていないという点であろう。さらにいえば、ここで問題となる現実的実質は確定的な物ではなく、あくまでもそれらに「可分的」であるに過ぎないということも思い出されねばならないだろう。

 とにかく、延長的連続体という領域においては未決定な仕方での統一的な経験が認められるということは確かである。問題は、この統一がいかにして起こっているかという点である。ホワイトヘッドによる最も簡潔な答えは、「秩序付けられた世界から派生する」というものである。端的に言えば、与件として与えられた他の現実的実質が構成する現実世界からそのような統一性、すなわち諸パースペクティブ間の連帯が可能になるのだととりあえずのところ解釈できる。

 しかしながら、正直なところそのような事態を私がうまく言語化することが全くできていないのは明らかだ。目下のところは、ヒントになりそうな記述を見ておこう。

経験の働きは、それ自身のパースペクティブな立脚点が延長的内容をもち、また他の現実的実質がそれらの延長的関係を保持しながら客体化されるという二重の事実のゆえに、延長的秩序の客体的構図を有している。

この延長的関係の「保持(retention)」は、先述した潜勢態の制限を冷笑するように思われる。しかしやはり、そもそもの「延長的関係」というものがよくわからない。ホワイトヘッドの例が「全体とか部分」、「重複」、「接触」などといった空間的な物に留まっているということも不明瞭さを手伝っているといわざるをえない。これまでの疑問は、どうしても「延長」というものを考える場合、何らかの意味で分化された現実的実質を先んじて考えてしまうことに起因しているといえるだろう。

 思い起こすべきは、延長というものもまた、永遠的客体のように現実的実質を「関係づける(relational)」機能を持つということかもしれない。

感覚与件との関係

 前回、関係を差配する永遠的客体についてみたが、ホワイトヘッドによれば感覚与件(sense-data)もその永遠的客体に分類される。端的な「赤さ」(例えば赤い椅子を見るとき、原始的な段階で経験されるのはぼんやりとした「赤さ」に他ならない)などはその例である。

 ホワイトヘッドによる感覚与件の説明で興味深いのは、そこで得られる永遠的客体が、先に見たような延長的関係と共に現実的実質の内的関係を構築するという点にある。感覚与件は空間の中に「配置(distribution)」され、「延長」を獲得しており、さらにここから現実的実質が原子化してくるのである。つまり、そのような永遠的客体と延長的連続体同士の関係、こういってよければそれらの組み合わせによって初めて、現実的実質がそれに順応し個体化するところの与件が準備されるのである。 

 前章で、延長的連続体が単独でそのような与件、リアルな潜勢態を成すと考えてしまったことが困難を生んでいたのかもしれない。その与件において成り立っているのはあくまでも時空的色などの諸性質の関係性であって、その関係を実際にどのような現実的実質が満たすかは未決定であり、その意味で未分化であるということもできよう。

 さらに、感覚与件はそれが直接経験される際、過去の現実的実質を現在の現実的諸実質との「結合(connect)」を行い、いわば同時的な出来事と過去の出来事双方の客体化を行うという機能さえ備えていることは肝要である。ホワイトヘッドの例は簡潔である。「例えば、われわれは同時的な椅子を見るがわれわれはそれを目見る。(中略)こうして色は、一方では椅子を、他方では目を、主体経験の要素として客体化する。」

 このことから、未分化であったリアルな潜勢態としての与件は様々な仕方で可分であるということが帰結する。というのも、その与件と共にある現実的実質が客体化されるのであれば、その客体化された実質に応じて、その与件が具体的にどのように客体化されるかが異なってくるであろうからである。このことは、経験の主体ならびに客体の「歴史的経路(historical routes)」や、「外的環境(external environment)」を加味することによって明らかとなるだろう。

 ホワイトヘッドは、「虚像的(delusible)」な経験というものを例にこれを説明している。我々が椅子を見る際、そこには先述したような感覚所与という永遠的客体と、それを例示する延長的関係があるわけであるが、それだけでなく、永遠的客体によって様々な先立つ現実的実質も客体化されている。例えばその椅子を「目で」見る、「鏡を通して」見る、あるいは「薬剤を服用して(幻覚として?)」見るといった事情が挙げられる。この際、我々は椅子を「見なかった」のではなく、過去の実質による制限を受けながら「見た」のだといえる。この三様の椅子を見るという出来事としての現実的実質の発生に際し、与件が同一であると仮定してみても、それぞれは区別される、個別的で原子的な実質であるということができるだろう。すなわち、三様の仕方で与件は分化し得るのであるが、それ自体としては未区分であるのだ。というのも、このような先行する実質に由来する様々な要因は、直接的な仕方で知られ得ることはないからである。

 最後に、未だ謎多き延長的連続体とパースペクティブに関して付言しておく。このような感覚所与によって関係づけられた諸実質それぞれが、それぞれのパースペクティブを持ち合わせており、かつそれらが「保持」されるのだとしたら、それらの先立つパースペクティブと、現在において働いているパースペクティブの相互作用が起こることになろう。このような中間的なパースペクティブとして潜勢的な構図が作り出され、そこに向けて感覚所与(永遠的客体)が先立つ現実的実質を位置づけることによって、新たな実質が生じてくると考えてよいのだろうか。