マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第22回〉1-2-3 範疇的拘束ⅵ

変異(transumutation)とはどういうことか<謎!>

 変異の範疇と題される第六の範疇は以下のように始まる。

ある同一の概念的感じが、現実世界における諸現実的実質の相互に類似する(analogous)物的感じから完全な形で(impartialy)抱握主体に派生する場合、それに続く統合の段階、つまり端的な物的感じとそこから派生する概念的感じを伴った段階において、当の抱握を行っている主体はこの概念的感じの与件(datum)を、抱握主体自身の内に抱握された諸実質を含むある結合体の性格(characteristic)、あるいはその結合体の部分が持つ性格へと変異させる(transmute)かもしれない。このように性格づけられた結合体(またはその部分)は、当の抱握主体が享受する感じの客体的与件(objective datum)である。

 正直、この第六の範疇は私自身の中でも未だ納得のいっていないというか、理解が追い付いていない感じのする箇所である。

 最初の方で言われていること、殊に「完全な形で」概念的感じが物的な諸感じから派生するということは、第五の範疇と対照をなし、寧ろ第四の範疇で言われたことに寄せて理解できるだろう。第五の範疇で重要であったのは、概念的感じの「与件」はそのまま維持するが、それを「部分的に」抱握するということであった。この部分の選択を差配するものが主体的形式であり、それによって「転換」が生じるのであった。しかし第四の範疇で言われたように、そのような転換が生じないこともまた考えられる。そこには純粋に(purely)概念的感じを物的感じの派生として享受する働きがある。

 変異という働きを考える際は、おそらくこのような転換なしの抱握、つまり端的な物的抱握とそれに付随する概念的抱握がそのまま維持されるような事態が起こる。そして、そこにおいて抱握の客体は前回見たような普遍者(universal)に他ならない。しかし当然、それが変異である以上、単なる普遍者あるいは性質の維持、継承であるということはない。第五の範疇において見いだされる差異が、同じ与件を前提したうえでの差異、つまり同じような普遍者を受け入れはするが、それを「いかにして」「どの程度」抱握するかの主体的形式に左右されていたのとは異なって、より根本的な差異、具体的に言えば抱握される与件のレベルでの差異が、この変異という作用にはあるのではなかろうか。

 先述したように、抱握による実質の生成過程において、少なくとも初段階では、「完全な形」での概念的感じが起こっているはずであり、そこにおける与件は永遠的客体(普遍者)であるはずである。しかもその普遍者は、概念的感じがそこから派生するところの物的感じの与件、つまり抱握の客体となる現実的実質に含まれる普遍者であるはずだ。変異が起こるのは、この与件についてである。ではこの与件が、いかにして変異すると考えられるか。

 ホワイトヘッドは端的に「抱握主体自身の内に抱握された諸実質を含むある結合体の性格」へと変異するのだという。正直いまいちピンとこない。違和感があるのはおそらく、抱握主体自身が、与件とされているものを含みこむ最中にあることを念頭に置くためであるだろう。抱握の与件自体が、目下その抱握によって形成されつつある実質を含む結合体の性質に求められるということは一体いかなる事態だろうか。

 先の説明に続いて、そのような結合体は「永遠的客体とのコントラスト」にあるということが言われる。ここでいわれている永遠的客体は先述したような普遍者、物的感じから派生した概念的感じの与件であるだろうけれど、それがいかにして結合体とのコントラストを成すのかまだうまく記述できない。

 ここでは、目下考えられる解釈を試論的に提出するにとどめたい。結合体と言われているからには、抱握主体たる現実的実質を幾分か超え出た領域が関連していることを注意すべきかもしれない。先述した違和感は、ある現実的実質が抱握によって生成している最中にも拘らず、その与件が生成している当のものに求められているように感じたことに起因する。*1しかしそもそも与件として求められるのが「結合体」の性質であるのだとしたら、その当の現実的実質そのものが生成している最中であるとか、そこにおいて抱握の主体と与件が重なるとかそういったことは問題とならないのかもしれない。

 

*1:無論この事態がまったくおかしな帰結を生まないという可能性も考えられる。