マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第19回〉1-2-2 説明の範疇xxv~xxvii

現実的実質の「満足(satisfaction)」

 説明の範疇の列挙も終わりに差し掛かったところで、現実的実質自身の「最終相(final phase)」が語られる。以下第二十五の範疇を引用する。

 現実的実質を構成する合生の過程における最終相は、一つの完全に決定された複合的感じ(one complex,fully determinate feeling)である。*1この最終相は「満足(satisfaction)」と呼ばれる。それが完全に決定されているのは、(a)その発生(genesis)に関して、(b)超越的創造性transcendent creativity)のためのその客体的性格に関して、そして(c)それ自身が持つ宇宙におけるすべての物事(item)を積極的ないし消極的に抱握していることに関してである。

 ここでは現実的実質が、複合的な諸感じ、諸抱握が完全に決定されたものと考えられている。(a)の意味での決定は、少なくとも私には理解可能であるように思われる。ここで「発生」と呼ばれているのは、当の実質がそれとして生成すること、すなわち合生の過程を指すのであろうから、この決定性はいわばその実質の生成史における決定であると考えられよう。第二十六の範疇でいわれるように、そこでは発生過程における構成要素、諸抱握が、当の実質それ自身に対して「一つの一貫した機能(one self-consistent function)を持っている。

 問題となるように思われるのは(b)の決定性である。ここでいわれている「客体的性格」とはすなわち、前回まで見たような実質の「機能」であり、殊に他の実質の合生に関わり、他の実質それ自体に抱握されその実質をある意味で構成するという働きであると理解できよう。しかし、そのような客体的性格において完全に決定されているとは、いったいどのような事態なのだろうか。字義通り解釈すれば、実質はその合生が完了する際、それが他の実質に与える諸影響、具体的に言えば他の実質に対して客体化されるその仕方を決定されている、ということになりはしないだろうか。これはある種の決定論であるように私の目に映る。*2

 このような客体的性格について考えると、そもそも満足といった事態が起こり得るのか、といった疑問が湧く。これまでホワイトヘッドが強調してきたように思われるのは、実質は常に他の実質の合生過程に、その構成要素として抱握されるものとして供されるということであったと思われる。したがってある実質は常にあらゆる客体化を待ち設けるpotentialityをもっているものと考えられる。すると絶えず積極的、あるいは消極的に抱握され得るものとしての実質において、それが完結するという事態はかなり考えにくいのではないだろうか。

 一つの実質というものを、どこで「切るか」、どの点において「区別するか」が問題となるかもしれない。個々別々の実質を、「それ自体としては」完結したものと見做し、またそれが新たに客体化される際には、またそこに新たに変異された実質を認めることによって、問題は解消されるかもしれない。ここにはなにか、原子的なものと有機的なものの、奇妙な揺らぎみたいなものが関与しているように思われる。

 次回以降は「範疇的拘束(Categorial Obligation)を見ていき、構図の具体化を図ります。

*1:著作集版では「十全に決定された」となっているが、私はadequateの意味での「十全性」を重視したいためここでは訳し分けることとする。

*2:"determinate"を、より弱く"fixed"や"limited"の意味で解することによって問題は解決するかもしれない。しかし"fully"という表現を看過することはやはり難しいだろう。