マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第21回〉1-2-3 範疇的拘束ⅳ~ⅴ

現実的実質の「再生」と「差異」

 概念的価値づけ(conceptual valuation)と題された第四の範疇は、以下の説明を付す。

各物的感じに由来する純粋な概念的感じが得られ、 この概念的感じの与件は、当の物的に感じられた現実的実質ないし結合体の限定性(definiteness)を決定する(determinate)永遠的客体である。

 物的感じは現実的実質を感じること、抱握することであり、概念的感じの対象は他面永遠的客体であることをまず確認したい。問題となるのは「各物的感じに由来する純粋な概念的感じ」の部分であろう。

 概念的感じが物的感じに「由来(derivation)」するといわれるのは、端的に言えば、感じられる現実的実質そのものの組成に、永遠的客体ないしその抱握(つまり概念的感じ)が含まれているからに他ならないだろう。

 永遠的客体をある「普遍者(universal)」であると仮言すると些か理解しやすいかもしれない。例えば個物、あるいは現実的実質である「赤い眼鏡」には、赤性や眼鏡性とでも言われ得るようなものが抱握されている。この場合、当の「赤い眼鏡」はその抱握によって構成されているのだから、ある意味でそれによって「限定」されているともいえるだろう。*1

 したがって「純粋な概念的感じが得られ」るのは、この場合物的感じによる現実的実質の抱握を媒介し、そこで抱握の客体となる実質が自身の内に含む永遠的客体を開示するからに他ならない。

 次に、第五の範疇を見てみよう。

概念的転換(conceptual reversion)の範疇。心的極(mental pole)の初めの段階においてその与件を形成している永遠的客体と、部分的に同一でありまた部分的に異なるような永遠的客体をその与件とする概念的感じの創始がある。この差異は、【その感じ、ないし抱握の】主体的指向によって決定される。

「心的極」は、ここに初出する用語だが、ここでは概念的抱握のことを指していると解釈して差し支えないだろう。したがって、ここで言われていることは、先の第四の範疇と関連する。

 先述したように、物的感じから派生した概念的感じは、感じられる当の実質が自身の内に包含する永遠的客体をその対象とするものであった。いわばこれが、第五の範疇にて言われている「心的極の初めの段階」における抱握対象である。【この抱握対象を、「第一の永遠的客体」と仮に呼称する。】第五の範疇では、これとは部分的に対象を異にする、また別の概念的抱握があることを主張している。【こちらは「第二の永遠的客体」と呼称する】

 そしてその差異の原因、つまり同一の永遠的客体を抱握していながらもそれを完全には抱握せずに部分的な抱握に留まる原因は、その抱握の主体的指向であると言われている。これは具体的にどのような事態を指すだろうか。

 先述した「赤い眼鏡」の例で考えてみよう。赤い眼鏡という実質は先述したように、「赤い」という永遠的客体を抱握するものとして考えられる。この「赤さ」は、いわば「第一の永遠的客体」である。しかし、「赤い眼鏡」を構成する抱握は、何もこの「赤さ」の抱握のみではない。当然「眼鏡性」などの概念的抱握もそこには含まれる。ここにおいて、諸抱握の相互作用が恐らく生じる。具体的には、「赤さ」の抱握は、紛れもなく「眼鏡の性質として」抱握される。いわば眼鏡の性質を記述するという「目的」を度外視しないものとして、「赤さ」の抱握は考えられねばならない。この抱握において考えられるものが、「第二の永遠的客体」であろう。おそらくそれは「眼鏡の赤さ」という普遍者であり、性質であるだろう。

 このように考えると、ホワイトヘッドが第四の範疇を「物的感じの再現(reproduction)」に関連するものだとし、また第五の範疇を「物的感じからの差異(diversity)」に関連するものだと記述していることにも同意できるように思われる。ここでは、単に「赤い眼鏡」という実質から派生する「赤い」「眼鏡(性)」の素朴な概念的抱握を超え出て、それと完全には重ならないような「眼鏡の赤さ」というより複合的で具体的な概念的抱握が起こることが指摘されているといえよう。

 

*1:この限定は諸抱握の相互作用に基づく。例えば赤い眼鏡は、他の実質や永遠的客体を抱握して形成される。「昨日買った」、「さっき割った」、「赤い」、「眼鏡」のように、抱握情報の集積がそこにある。