マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第23回〉1-2-3 範疇的拘束ⅶ~ⅷ

主体的調和(subjective harmony)

 主体的調和の範疇と題された第七の範疇は以下のような記述である。

概念的感じの価値づけ(valuation)は、その感じが、コントラストを持ちまた主体的指向と合致(congruent) するような【実質の】構成要素となるように適合させる(adaptation)ことによって相互に決定される。(【】内筆者)

 ここにおいて肝要であるように思われるのは、主体的指向との「合致」であろう。ある他の実質から概念的感じが得られる時、その概念的感じは当初の、すなわち他の実質を構成していた永遠的客体を直接得るわけではない。というのも、両者の実質において主体が異なり、したがって主体的指向も異なるためである。概念的感じによって実際に得られるような「価値」は、主体的指向とのすり合わせ、つまり「調和」を度外視しては考えられない。主体となる実質の構成要素を形づくる作用としての抱握(感じ)は、「当の主体を創造する過程において生じるのだが、その主体を抽象して考えることはできない」という指摘は、このことを示していると考えられる。

主体的強度(subjective intensity)

 このように主体的指向の重要性が確認された形となるが、第八の範疇ではその主体的指向の性格がより具体化される。つまり「何を」指向するのかが、ここでは端的に述べられている。

【主体的指向は】(a) 直接的主体(immediate subject)において、そして(b)関連する(relevent)未来において、感じの強度(intensity)を指向(aim)する。

これまで当ブログで使ってきた感じの「濃度」であるとか「度合」であるようなイメージはここに回収され得るかもしれない。感じられたものを感じる主体の組成にそのまま継承するのではなく、当の主体が、あるいはその主体の持つ指向が許容する程度でもって継承されるという言い表し方も可能だろう。

 さらにこの箇所で興味深いのは、当の主体に直接的な感じのみに留まらず、「関連する未来」における、いわば直接的な物を媒介した次元における感じの強度までもが指向されることが主張されている点である。

この二つの指向は(中略)その見かけほどには厳然と分け隔てられない。というのも、関連する未来の決定と、その未来における感じの強度がどの程度かを差配する予測的感じ(anticipatory feeling)は共に、直接的に与えられた諸感じの複合に作用する要因であるからだ。

「予感」というものをある種の認識と捉えることはこの箇所の理解に有用かもしれない。予感、予測が、直接的な認識であることは十分考えられる。このことを現実的実質の抱握ないし感じの主張に応用するならば、直接的な仕方で、現に予測する主体として実質が形成されていると考えることができるだろう。ここにおいて確かに未来が指向されていることに相違ないが、 しかし未来を指向するもの(実質)としての現在性あるいは直接性というものが指向されていることは注意しなければならないだろう。

 この直接的な感じに数え入れられるものとしての予測的感じが、関連する未来の決定にどのように携わるかも見ておかねばならないだろう。

関連する未来は、予測された未来における諸要素―現在の主体が持つリアルなpotentialityのおかげで、有効な強度 (effective intensity)をもって現在の主体が感じることができている諸要素から構成される。

 まず言えることは、予測的な感じによって得られた要素が関連する未来を形づくるということである。しかしこの双方、つまり予測された未来と関連する未来が完全に重なるものと考えられるかは些か疑問が残る。「予測」というと何か意識されたものをどうしても想起してしまうため、意識されていなくとも実際は現在と関連している出来事の説明がつかないように思われるからだ。

 新しい実質、つまり未来の実質が、その生成のために他の実質、例えば時間的に先行する古い実質を抱握することが間違いなくあることはこれまでの議論で確認できる。しかし、過去の実質の「予測」の範囲、これを仮に過去の実質のpotentialityの許容する範囲と読みかえたとしても(つまり人間主体による認識論的な物言いを避けたとしても)、それを逸脱する可能性はやはり残っている気がしてしまう。

 しかし、ある実質の予測的感じが示す「関連する未来」を拡張することが許されるならばこのことはさして大きい問題にはならないかもしれない。例えば、ある予測が裏切られたり忘却されたりすることもその予測されたものが示す関連する未来というものの範囲内に認めてやればいいのかもしれない。当初「強く」感じられていた未来が、結果的に「弱く」感じられたというような程度の差しかそこにはないのかもしれない。