マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第31回〉2-1-5~7

 引き続き、第二部第一章から。

特殊と普遍の調停

 大きすぎるテーマではあるが、ホワイトッドが実際強調する問題であるのだから仕方がない。まずホワイトヘッドによる主張をしつこい程に確認しよう。最も肝要であるアイデアは、ある現実的実質が他の現実的実質に客体化されることによって、後者の実質を内的に、(こう言ってよければ)本質的にさえ構成するというものであった。このことからホワイトヘッドは、ある実質の説明(description)の領域においてさえ、当の実質とは異なる他の実質が介入してくるということを加味せねばならない、と主張するに至っている。

 ホワイトヘッドは、ある個的な現実的実質つまり「特殊なもの(particulars)」がそれ自身を超えたより普遍的な領域、すなわち他の実質の構成に介入しているというこの事実から、その実質それ自体が「普遍的なもの(universals)」としての性質を持ちうることを結論付けている。

 これについては些か疑問が残る。たしかに現実的実質が他の実質に寄与することは間違いないとしても、それが直接的な仕方で普遍性を獲得することはあり得るだろうか。ある現実的実質の説明や解明に際して、そこに参入している現実的実質によってそれを行うことができれば、間違いなくある現実的実質が他の現実的実質を説明しつくすことができており、普遍性を獲得しているだろう。しかしながらそのように考える場合は、双方の実質に何らの差異が認められないという事態を不可避的に招く。しかしこのような一元論はホワイトヘッドの容認するものでは決してない。

 より立場を弱める形で、ある実質の説明において他の実質それ自体が不可欠だと考えてみてはどうだろうか。*1実質「それ自体」と書いたのは、その実質がそれによって表現され得る普遍者、換言すれば質や形相と区別するためである。仮にそのような、ある現実的実質を代弁するような普遍者が、他の現実的実質の説明に参与するという事態としてホワイトヘッドの主張を理解してしまうことは、本末転倒に他ならないだろう。では、そのような普遍者から解放された、純粋な状態における実質が、他の実質に介入するという事態とはどのようなものであるのか。

 ホワイトヘッドは、ジョン・ロックの哲学に自身の有機体の思想の萌芽を見いだしながら、独自の主張を行うことに成功しているように思われる。ホワイトヘッドがロックの思想からの取り出しにおいて重視するのは、経験という働き(ロックにおける「観念」でありホワイトヘッドにおいては「抱握」であるが)が「外的な事物に見いだされるがままに(as the are found in exterior things)」起こるというアイデアである。他の箇所における、「最初に質があり次いで推論された個々の事物があるというものでもない。その逆だ。」や、「抽象的観念には『特殊な存在の観念』が先行する」というロック哲学への評言と考え併せれば、この主張は、現実的実質における認識作用において根本的であるのは、普遍者の進入ではなく寧ろ他の実質それ自体の、外的なものとしての介入である、というものに集約できるのではなかろうか。

 この主張から、現実的実質の抱握による構成においては、他の実質がもつ特殊性を維持したままでの抱握があるということ、換言すれば単なる普遍者(の集合)としてではなく、当の実質から区別される外的なものとして、つまり元来それが持っている独自の構造を保存して抱握されるということが導き出せるだろう。したがって、このような特殊な現実的実質が他の実質に対して持つ効果から、特殊性から普遍性への接続を見ることは可能だろう。

普遍と特殊の調停

 これまで、特殊的な実質が他の実質に対して持つ普遍的な効果について見てきたが、未だ不十分な要素が存在する。それは、このような特殊から普遍への接続は、さらに普遍から新たな特殊への接続を必要とすることに起因する。かみ砕いて言えば、ある実質が他の実質に介入するというだけでなく、その介入によって普遍的な要素を含むことになった後者の実質が、他ならぬ個体として、特殊化された実質として生じるという事態が起こるのである。

 単に諸実質を「外的な事物に見出されるままに」受け入れるだけで実質が生じると考えることは、その実質は単に先行する出来事の集積と同一視され、個体化されていないとする一元的な実体観に逆戻りすることに他ならない。そこにはいわば「特殊化」ともいえる作用があるはずであり、これについて解明されねばならない。

 この特殊化を差配すると考えられるのが、意外にも「永遠的客体」であるという事実は興味深い。

【永遠的客体は、】任意の一つの現実的実質が他の実質を綜合することによっていかに(how)構成される(constitutioned)か、そしてその現実的実質が、原初的に与えられた相から、その個体的な享受と欲求とを含むそれ自身の個体的な現実存在(individual actual existence)へといかにして進展していくかを表現する。

さらに、このような永遠的客体による個体化の内実をより具体的に説明するなかで、ホワイトヘッドは「地位(status)」という独自の用語を多用する。ホワイトヘッドによれば、個々の抱握されたもの、先の言葉で言えば「外的な事物に見出されるまま」の諸観念(諸実質)は、ある実質の内に共存しており、その共存には基盤となる「内的関係(internal relations)」が結ばれていることを強調する。

 ホワイトヘッドは、永遠的客体の働きによってそれぞれの諸実質が相互の関係に差配され、それぞれの「地位」を持つことによって初めて、その諸関係の総体としての実質の固有性が獲得されるのだと主張していると解釈できる。「永遠的客体が、当の現実的実質を構成するものとしての現実的諸実質の諸多性を導き入れる機能を果たして」おり、ある個別的かつ特殊な現実的実質が現にそのような実質であることは、永遠的客体が「現実世界における地位を当の現実的実質に割り当てる(assign)」ことに起因する。

 

 このように、個体としての現実的実質が独自の地位を永遠的客体によって付与された総体であることが主張されることによって、先に触れた「外の事物に見いだされるがままに」抱握するということに付言することも可能だろう。まさにこの抱握は、「外の事物の個々の特殊性の地位を感じる」ことに他ならないのだ。つまり、既に成り立った、厳密な内的関係を伴ったものとして他の実質を感じるということである。

 したがってここにおいて、この内的関係並びに地位それ自体は、ある意味で保存されて新たな実質に伝達される、ということも導出できるだろう。現実的実質というものの意味が、先に見たように単なる内容物(諸実質)のみならずそれらを結び合わせる内的関係までも含めて理解されねばならないならば、そのような関係を伴った他ならぬその実質の抱握は、その実質の抱握である限りにおいてその実質を「変化(change)」させるものであってはならない。

 むしろそのような「変化」、つまり新しい個別的実質の生成に関与するのは、新たな内的関係と地位の付与者である永遠的客体でなければならないだろう。ここにおいて「『変化』は、現実の事物が発展する只中における永遠的客体の冒険(adventure)を記述することである。」というホワイトヘッドの言も理解可能ではなかろうか。特殊な個々別々の出来事が他の出来事に参与し、それぞれがそれぞれの内で永続的に実効力を発揮するという意味で現実的実質の普遍性が現れる。また他面、そのような相互対話的領域から決して疎外されることはないが、それでも各々が差異と新しさを持った個体として生成するのは、永遠的客体によってそのような外的影響を新たな総体に組み上げる、関係づけの特殊性も現れる。*2

*1:決して、実質がそれ自体のみで独立して存在するといったたぐいの前提ではない。常に実質は、他の実質との関係を内に含む。

*2:この特殊性には、前回見たような永遠的客体の「選択」という自発的要素も関係しているかもしれない。