マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第28回〉1-3-3

連続性の生成

 今回は短いのでサクッと。しかしホワイトヘッドにとっての根本的なアイデアが現れているともいえるので結構重要な箇所かもしれない。

 前々回から、思弁的構図のもつ派生的諸観念について見てきたが、今回は「生成」という概念に対するホワイトヘッドの指摘を扱う。ホワイトヘッドが批判するのは、生成が「唯一の継起性(unique seriality)」を伴って進行していくという誤解であり、これは誤った一般化に基づく観念であることが主張される。

 より肝要であるように思われるのは、「唯一の」という部分であろう。ホワイトヘッドの言う「生成(becoming)」、そして「創造的前進(creative advance)」は、それが時間的に進行するという点では、ある意味で継起的で連続的であるといえるだろう。しかしその進行は、連続写真のイメージのように行われていくわけではない。連続写真の場合、あるワンカットずつはそれ自体で確定的であり充足的である。かつ、その写真群はある一つのまとまった「生成」のフローによってのみ意味づけられている。

 ホワイトヘッドの考える生成は、思うに、異なった姿を持っているだろう。諸現実的実質は、連続写真の一枚一枚のように、それ自体では完結していない。それは自身の過去に、未来に見つけられうる他の諸実質との関係から切り離すことはできないのであり、かつそれ自身にとっての生成が「唯一」であるということは決してない。言い換えるならば、その当の実質の生成がたどる道程、すなわちその実質が関連する限りでの他の諸実質の生成は実に多元的であり、たった一つの確定的なフローに位置づけられるわけではない。

連続性(continuity)の生成はあるが、生成の連続性はない。現実的契機は生成するcreatureであり、そしてそれらは連続的に延長世界を構成し続けている。つまり、延長性(extensiveness)は生成する。しかし「生成(becoming)」それ自体は延長的でない。 

 この記述は簡潔でかつ重要であるだろう。 先述したように、生成はそれ自体が何か確定的な質量、延長を持った形で起こるのではないし、そのように生成したものが単に連なっていくのではない。むしろ、何かしらの連続性や延長性をすでに持った実質が生成するのであって、生成によって延長性や連続性が与えられるわけではない。

 興味深いことは、ホワイトヘッドが自身の思索と原子論との接近をここでも告白している点である。確かに原子論においても、生成に連続性は認められず、刹那的な原子の生成が認められるのみである。しかしホワイトヘッドのいう原子論は、「複合性(complexity)」、「普遍的相対性(universal relatuvity)」を排除しない限りでの原子論であり、生成する原子は、その内に「全事物の体系(system of all things)」との関連を内包している。