マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

前回の修正と補足

 前回、私は「決断は合生過程に位置づけられないこと」を強調したが、それは不正確だ。ホワイトヘッドは決断を合生過程に位置づけて語ることもしばしばある。このことはホワイトヘッドが決断について二種類あることを主張していたことに関連する。したがってより誠実な飯盛に対する批判は、この内の一方のみを決断概念の意味するところと解釈しており、他方を無視しているというものでなければならなかった。このあたりは論文にするときに組み込めばいいと思っていたけれど、批判を公開するのだからちゃんとしておかねばと反省した。

 さて、ホワイトヘッドは決断にも二種類あることを主張する。それが「内在的決断immanent decision」と「超越的決断transcendent decision」だ。しかし、この区別は議論の中で提示されてはいるものの、常に使い分けてくれているわけではなく、単に「決断」とだけ言われることが多い。このことが解釈をより難しくしている。

 具体的な区別がなされるのは第七章第四節においてである*1。そこで2つの決断は、永遠的客体がそこで果たす機能に関して区別されている。まず内在的決断においては、それがあるひとつの契機に固有の「形相的完結formal completion」にほかならないことが言われる。つまりそこにおいて、その契機の形成の与件となる過去の契機が、ある確定的な主体的形式(永遠的客体)を伴って受容され統合されることで、先行する契機が当の契機をいかなる意味で形成しているかが決定されているということだ。そしてこのことによって「直接的で特有な個体の満足satisfaction of immedeate particular individual」が達成される。重要なことは、少なくとも内在的決断においてそれは満足と区別されないという点であり、したがって内在的決断は合生過程に位置づけられる。

 しかしもう一方の超越的決断においては「過去から現在の直接性への移行transition」が起こっている。移行は、第十章第一節*2に明らかなように、合生とは区別される過程である。合生がひとつの契機における内的な構成に関わる一方で、移行は「特定の存在としての終結に伴って死した過程が、それとは異なる特定の存在の構成において原初的なoriginal要素としての存在になる」ことを意味する。重要なことは、ある契機における移行はその合生より後に位置づけられるという点である。*3というのも移行が決定するのは、それ自体としての生成(合生)を終えた契機が新しい契機の構成のためにいかにして供されるかであるからだ。このことは、あるひとつの契機の諸段階において満足のあとに決断が位置づけられていたことと考え合わせることができるだろう。このことから、超越的決断はその契機の他の契機への移行にこそ関わるのだと確認できる。

 同じ箇所でホワイトヘッドは、まさにこの移行という事態を説明する概念こそが客体化objectificationであるとしている。ここにおいて、移行・超越的決断・客体化はそれぞれ同一の事態に関連していることがわかる。それは、ある契機が他の契機の合生の与件として与えられるという事態である。よって次回からは、今一度決断についてのホワイトヘッドの記述に戻り、たしかに決断によって新しい契機のための与件が用意されることが主張されていることを確認し、それがいかなる意味においてであるかを客体化という図式を通して明確化することを目標にする。

*1:PR163-6

*2:PR210

*3:正確には、ある契機pの満足→pのiへの移行→iの満足→iのfへの移行といった順序である。この記述の場合、焦点があたっているのはiという契機である。iはimmedeate、pはpast、fはfutureを意味する。