マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第4回〉1-1-3

 第三節でも、哲学という手法そのものについてのホワイトヘッド省察が続々とくわえられていく。第二節でも見たように、哲学的な学説は「テスト」、つまり現実との適応可能性の審査によって順次改訂され得るものであり、そこにおいてこそ一般的真理体系としての哲学が「進歩」するのであることがここでも言われる。

 このような理想のもとで見られる哲学は、その「誇張」によって誤謬に導かれてきたのだというホワイトヘッドの主張は明確である。哲学はその本性として一般化、範疇化を目指す。しかしその中で、端的に言えば見逃している要素があるという可能性に対して自省的でないのであればその現実世界の範疇化は「誇張」的であるとも言えよう。しかしおそらくここでホワイトヘッドが言っているのは、現実に対する概念による完全な定式化をしろというのではなく、つまり概念的なものでは現実を決して取りつくせないのだというのではなく、その概念化の可能性が、独断的に制限されてはならないという主張であろうと思う。現実世界に「含意されている抽象の度合い」は本来は多様なものであってしかるべきであるのだが、それが独断的な形式化によってある一つの範疇と半ば同一視されてしまうこと、もはやその範疇の方が具体的に真なるものと前提されてしまうことをこそ、ホワイトヘッドは危惧しているように思われる。ホワイトヘッドのいう「具体者取り違え」の誤謬は以上のようなものと考えられる。*1本性的に具体的なものとは、それ自体として様々な抽象可能性をもった総体、つまり現実世界であって、それらがいかにして記述、定式化され得るかのテストに、随時かけられて行かねばならないということが強調される。

 以上のような、つまり抽象可能性の総体であるはずの現実がある単一の定式化によって具体者と見做されてしまうことが哲学における第一の誇張であった。第二の誇張は、ホワイトヘッドによれば「論理的手続きの誤った評価」であると言われる。ホワイトヘッドは、哲学の方法が「明晰で判明で確実である前提を独断的に明示し、それらの前提の上に、演繹的な思想体系を構築すること」に拘泥し、本来「目標」であるところの「一般性の究極な表現」をある種の「出発点」としてしまっていると批判する。

 ホワイトヘッドはこのような文脈で、背理法(ex absurdo)に対して疑義を投げかける。*2ホワイトヘッドが指摘する問題点は、矛盾という結論からは本来「推論に含まれた少なくとも一つの前提が間違っている」ということのみであり、それ以上でも以下でもないのであるが、背理法はその矛盾から、ある確定的な一つの前提が間違っていると独断的に結論付けていることであるようだ。つまり背理法には、それが証明したい命題、例えばPを取り出したいがために、not Pから矛盾を導きだすわけだが、その矛盾の要因がほかならぬnot Pであるという必然性は決してないことをホワイトヘッドは主張しているように思われる。そのような計算の過程において、なにかしらの処理が確実にあり、その計算がnot Pだけから成り立つのでない限り、*3矛盾の要因が何か他のものである可能性を、背理法は無視しているというのである。つまり背理法は、矛盾を引き起こすような「病的な前提の所在が即座に突き止められると、問い進めもしないで軽率にも仮定」しているという。*4

 これより後の第三節の記述は、ホワイトヘッドにおいて哲学が、いかにして進行するべきである捉えられているかを確認できる内容となっているように思う。特に、以下の主張は象徴的である。

哲学は、進歩の各段階で明確に述べられた範疇の漸次的仕上げが、その固有の目標とみなされるまでは、その固有の地位を回復しないであろう。相互に不整合な競合する構図があり、それぞれがそれ自身の功罪を伴っている、ということもあろう。その場合には、もろもろの相違点を調整することが、研究の眼目であろう。形而上学的範疇は、自明的なものの独断的陳述ではない。それは究極的な一般性の、試論的な定式化なのである。

 いかなる形而上学的記述も、それはそれ自体として完結した構図ではなく、それらは様々な他なるものとの関係において検証されたり、あるいは反証されたりしながら、まさに「漸次的に」究極的な一般性を希求するものであるというホワイトヘッドの主眼がここにみてとれる。

 形而上学的構図は「定式化されていない条件、例外、制限付きで、そしてより一般的観念によって新しく解釈されるという条件付きで、真である」ということ、そしてその真偽の暫定的な結論は、「適応すべき状況と照合」することによって確かめられ続けるべきであるという主張は、これを裏付けかつ一貫しているといえよう。*5

 形而上学的構図はそれとして完璧ではなく、常に更新される状況に即した検証によって、その本質が瓦解する可能性、「根本的な再構成」が要請される場合さえあり得る。しかしそのような柔軟性こそが、形而上学的構図がrobusutnessとしての強度、つまり普遍的妥当性を持ちうる可能性を何よりも示しているのだといえるように、私には思われる。

 

*1:『科学と近代世界』の中で多用されるホワイトヘッドの言葉遣い。そこでは主に機械論的宇宙論、還元主義が批判されている。この本はホワイトヘッド研究としては外せないと思われるし、この概念もかなり重要だからもっと詳述したいが、現在私の手元には一度通読した際のメモ程度しか残されていないので追って参照、追記したいと思う。

*2:もはや恒例の、序文における「否認されるべき思考習慣のリスト」にも、しっかり「背理法による独断的演繹」が名を連ねている。

*3:not P→というだけの推論があるならば、それは前提と同一視できるであろうということ?

*4:ここにあるように思われる問題点は、背理法に限ったものではないかもしれない。たとえばA→Bを推論によって、たとえばAを前提したうえで証明しても、その推論の過程で生じた別の要因によってBが導出されていて、かつその要素がAに原因するのではない場合などは十分考えられるように私には思われる。

*5:C.S.パースや、C.I.ルイスの系列のプラグマティズムとの親和性を感じた。ホワイトヘッド自身はジェームズ、デューイに恩恵を感じていると主張するが、そのあたりのプラグマティズムとの関連は、慎重に確認したほうが良いだろう。往々にして、哲学者同士の類似性や影響関係を見いだすことは恣意的になりがちであることは(特に私のような人間の場合は)注意するべきだと思った。