マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

鈴木清順『殺しの烙印』(1967)感想

 『殺しの烙印』は、鈴木清順の監督作品である。また具流八郎という脚本家グループの最初にして最後の映画作品でもある。この作品は当時の日活社内における評判が非常に悪く、鈴木はこの作品が原因で日活を追い出されたりしている。この追放に対する学生や映画ギークたちの反対は強く、シネクラブを中心とした「鈴木清順問題共闘会議」なるものまで結成されたりもしたらしい。とまあそんなアウトローな背景も相まって、本作はある種のカルト映画として位置づけられることが多い。

 私がこの作品を初めて観たのは学部生のときだった気がする。今回でおそらく二回目にはなるのだけれど、当時とそこまで評価も感想も変わっていない。この作品の良さは、全編を通してどこか「胡散臭さ」を帯びていることだと思う。

 まず殺し屋という職業があって、個々人にランキングがつけられているという設定が既に胡散臭い。*1普通殺し屋が描かれるときにスポットが当たるのはある種の死生観だったり、殺しの凄惨さに由来するクールさだったりするものだが、この作品では殺し屋の序列間闘争が描かれているのがおかしみを生んでいる気がする。*2しかも、これは重要な点な気がするが、このような設定、つまり殺し屋のランキングのシステムとか殺し屋組織の内実とかに関する情報が著しく少ない。これによって、シュールな舞台装置が登場人物にとってはなんてことのない所与のものである感じが増し加えられて、観劇者には寧ろリアルに感じられるように思う。

 場面描写についても、なんだか現実感のない、所謂なめらかな進行とは程遠い展開とシーンが多い気がする。序盤ではハードボイルドな主人公が、中盤では死を恐れて子供のように泣き叫んだり、かと思えばナンバーワンを目指すと意気込んで小躍りしたり。人格とそこから想定される行動とが意図的にズラされているような感じがする。*3またシーンを取ってみても、スタイリストの高が火だるまになって走り回るシーンだとか、パンツ一丁の主人公が車に張り付いて銃撃するシーンだとか、実際の殺人という出来事が浮ついたテンションで描かれているのがよい。しかもこれらのことによって描写が「不自然に」なっているのではなくて、不自然な出来事が「自然と」描かれているのがうまいところな気がする。

 撮影技術については詳しくないので余計なことは言いたくないが、フィルムに直接白いペンで模様を書き込んだりするのは挑戦的だと思う。このシーンだけでなく全編を通して言えることだと思うが、この作品は「これが映画である」ことを自己言及するような、あるいはそれを匂わすような描写が多々あるように思われる。例えば映写機で映し出された中条美沙子(主人公の愛した殺し屋)を主人公が抱き寄せてスクリーンが外れるシーンだとか。*4思えば、こういう技法も相まって作品の「胡散臭さ」を助長しているのかもしれない。

 映画の感想を文字に起こしたのは初めてなので、なにいってんだこいつって感じもしますが、ご勘弁を。

 

*1:これは大和屋竺のアイデアらしい。

*2:ナンバー4の優男には「スタイリストの高」という通り名までつけられていたりもする。押井作品における立喰師の通り名はここに着想を得ている気がするが考えすぎか。

*3:主人公が「米の炊けた匂い」を異常なほど愛するという設定があり、米の匂いを嗅ぐだけのシーンが多くあったりする。

*4:しかし、おそらくこのような感想はあまり純粋なものではない。というのも私が押井守の実写映画の影響を強く受けているためである。でも押井守の『トーキングヘッド』のラストシーンは、この作品のラストシーンと非常によく似ていると思う。