マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第3回〉1-1-2

 哲学者は、前回見たような思弁的構図、つまり十全で不可避的に我々の経験に例示されるところの形而上学的原理の究極的な定式化を「決して望むことはできない」のだという主張から、第二節は開始される。そしてその不可能性の原因としてホワイトヘッドは「洞察の弱さと言語の欠陥」(Weakness of insight and deficiencies of language)を挙げ、この説では主にこれらの難点が分析されているといえる。今回は、殊に詳述されている前者についてまとめようと思う。

*1

 まず大きな前提として、いかなる意味においても我々に対して与えられているものは「われわれ自身を含む現実世界」であり、他ならぬその与件を経験するという事実の分析が、いかなる思想にとって根本的であるということが確認される。哲学もそのような「経験的側面」を持つことは決して否定できない。

 しかしながら経験、あるいは観察は、それのみによって完結した分析を世界に対して与えることは不可能であることがホワイトヘッドによって言われる。

われわれは象を見ることもあれば見ないこともある。つまり象は現前する時に限り、観察されるのである。観察という機能は、それによって得られる対象は現前している時に限り重要性を持つが、それは常に現前しているとは限らないという事実から切り離すことはできない。*2

 形而上学的な原理は、その必然性、十全性からして、ここでいわれているような象が現前していないときにも、(象を見ていない経験をしているときにも)つまり観察されていない現実世界にも不可避的に例示されねばならない。現実的な経験と可能的な経験が結び合わされるような原理でなくてはならない。ホワイトヘッドはベイコンの帰納法を「硬直した経験論」(rigid empiricism)と評し、それが問題含みなのは「整合性ならびに論理学の要請によって統制される自由な想像力の働き」を著しく欠くからだと主張した。

 確かに、真に帰納法を推し進めば、現前する対象のみを絶対化するような、絶対的対象の直接的な現前を信奉する実在論か、観察のみが対象を構成するという独断論的な観念論か、孤独な懐疑主義に陥るほかないように思われる。対してホワイトヘッドの取る策は、ここにおいてプラグマティックともいわれ得るものである。

発見の真実の方法は、飛行機の飛行のようなものである。それは特殊な観察の地盤から出発する。それは想像的一般化という希薄な空中を飛行する。そして合理的解釈によって強められ、改めて観察するため、再び着陸する。

  直接的観察のみに真実を求めるのではなく、むしろ可能的な観察との整合的な結びつきを統制された想像力において志向し続けること、そしてその合理的に形成された観念が、果たして現実に適応するものであるかの「テスト」(験証)を欠かさないことが、ここにおいて重要視されているように思う。そのような、直接的な契機を超えて観念を絶えず新たな契機に適用していくこと、そしてそれによってより一般的な観念を目指すことは、ホワイトヘッドによって「第一義的要請」と呼ばれた。そのような営みは総じて「ある制限された事実群に適応されている特殊な観念を、すべての事実に応用される類的観念を占うために利用する」ものであるだろう。

 そのような想像力に依る観念の絶え間ない構成において第二に要請されるのは「整合性と論理的完全性という二つの合理主義的理想の、不退転の追求」であるといわれる。前者の論理的完全性については、ホワイトヘッドは数学の役割を重視していて、数学において観念が相互に前提し合い、厳密な論理によって制御されていると評している。

 整合性については、それが合理主義における「健全さ」を保たせる役割があるとしたうえで、哲学史においてその様な整合性が常に保たれてきたわけではないと指摘する。鮮烈にも「論争者たちは、敵対者には整合性を要求しながら、己自身には免除するきらいがある。」という指摘まで行っているが、これは結構的を得ているように感じた。哲学に限った話ではないと思うが、論争というものはどうしても相手側を棄却することになるんだろうが、それは他でもない相手との整合性をこちら側が欠いていることの証左にもなろうし、その逆もそうなのではないだろうか。*3

 ホワイトヘッドによって不整合性は「無鉄砲に事実を否認すること」によって生じると言われている。しかしだからといって、整合性とはただあらゆるものをそのまま受容するだけの性質では決してないだろう。様々なものとの関係を完全に断ち切ることをしなくとも、それらとの秩序だった関係を持ったり、さらにその関係を新たなテストによって更新したりすることが考えられるべきであるように思う。合理主義における「健全さ」は、常に他なるものとの関係に開かれているという自覚、であり、それは独断論的になることへの予防線として考えられるだろう。

 しかし同時にこれが、形而上学的構図の究極的な定式化が望めないことを示してもいる。われわれは更新される現実との整合性に常に注意するために、想像的な観念の構成とテストを繰り返していかねばならない。そのような過程として、この現実を十全に解釈「しうる」体系があるのみなのであろう。

 この節は後半にスピノザの思想体系と有機体の哲学との類似点、相違点などが語られており、そこで主語述語形式への懐疑も少し触れられていて興味深いのだが、他の個所で詳述されるのでその時にまた参照したい。

 それでは。

 

  

*1:「言語の欠陥」は主に、主語述語関係による記述に対する疑義である。別の回に検討する。

*2:拙訳、facilityが「容易さ」と訳されていたけど「機能」のほうがいいかな、と 

*3:矛盾する立場、とか互いに包含することが不可能な立場というのはやはりあるのだろうが。ホワイトヘッドは矛盾について、単なる非論理性ではなくそれも不整合性を示すとしている。