マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第2回〉1-1-1

 今回から主文に入ります。頑張ります。

 とはいえ、どのように進めていこうか。この本は最も大きな区切りとして合計5部からなり、そこにそれぞれ含まれる章数は25、もっとも小さな区切りである節に関して言えば、合計155節ある。当初は章ごとに進めていこうと考えていた。内容としてまとまっているし、近視眼的になることを予防できると考えていたからだ。しかしこの本の場合、一章を一つのまとまった単位として精読することは様々な意味で難しい気がする。

 多分その印象は、ホワイトヘッドの体系構築の性格にある程度由来しているように思われる。ホワイトヘッドは、自身の重要なアイデアを小出しに、様々な文脈で、幾度となく提出する。しかしこれはホワイトヘッドの目的からすれば当然のような気もする。ホワイトヘッドは、経験され得るすべての宇宙に適う構図の提出を目指しているのであるから、その試みの中で出現する諸観念は、何か完結したものではありえず、常に他の観念との関係を持っていなければならないだろう。したがって、一つの章の中に留まってそれを整合的にまとめることは、章の中の内容がある程度豊富であるだけに却って危険であるだろう。*1しかしだからといって、155節を全部一息に読んで、それらを相互に結び合わせることなど到底できない。だから私は、いっそのこと最もミクロな手法を取り、なおかつマクロなものへの配慮を忘れないようにするという選択をしようと思う。つまり、一節ずつをなるだけ丁寧に考えてまとめ、そこにある観念がより広い場所で回収され得るということに注意しておこう。このブログにこうしてメモしておけば、回収されたときに参照したりもできて良いだろうし。*2

 私がこの言い訳がましい心構え的なことを長々と書いたのは、今回扱う「思弁哲学」と題された第一部第一章第一節において、似たようなことが言われていることに関連する。ホワイトヘッドはまず、思弁哲学という試みが「われわれの経験のすべての要素を解釈しうる一般的諸観念の、整合的で論理的で必然的な体系を組み立てようとする試み」であることを主張するが、今回の前書きは、この引用の「整合的」(coherent)*3という記述と深く関わる。

ここで使用されている「整合性」が意味するのは、構図を展開している基本的観念は、相互に前提し合っており、したがってそれらが孤立していては無意味だ、ということである。こうした要請は、これらの観念が相互に定義されうることを意味するのではない。その意味は、こうした一つの観念において定義できないものは、それが他の諸観念との関連から抽象されることはありえない、ということである。思弁哲学の理想は、その基本的諸観念が相互に抽象されることができないように思われるということである。換言すれば、いかなる実質(entity)も宇宙の体系からの完全な抽象において考察されえないということ、そしてこの真理を示すことが思弁哲学の仕事だということ、が前提されている。こうした性格が思弁哲学の整合性である。

  また、ホワイトヘッドがこのように語るところの思弁哲学的構図の整合性、つまりそれが他の諸事物との分かちがたい関連を持つという性質は、「十全(adequate)性」という性質へとただちに接続されている。その十全性は、ホワイトヘッドによれば一種の「必然性」(necessity)を持つものと言われる。つまりこの構図の整合性、十全性、必然性は三者ともに、この構図が、「(その構図を)例示するものとしての観察された経験の構造は、関連あるすべての経験が同一の構造をしめさなければならない」という一つの性格を示しており、それは「いっさいの経験を通してそれ自身のうちにそれ自身の普遍性の保証を有している」ということを明証している。

 端的に言えば、思弁哲学的構図の特性は、その不可避的な現実との結びつきであるといって差し支えないだろうと思う。それは相互に切り離すことのできない諸観念の可能的な総体であり、われわれの経験可能なものすべてに関わる。そこにおいて普遍性があるのはその関係である。

 このように理解すると、ホワイトヘッドは実にカント的な主張をしているように私には思われる。われわれの可能的経験すべてに不可避的に作用するものとしてカントが用いたのが純粋概念としてのカテゴリーであり、それがホワイトヘッドにとっては例の構図であると言われているように感じる。

 少なくとも現段階で、目的意識というか理念のようなものはある程度この二人に共通するのではないかと、私には思われる。*4結果的にカントとホワイトヘッドの思索が厳然と区別されることになろうとなるまいと、双方がわれわれに与えられるこの現実に対する普遍的理解を求めているということに変わりはないと思う。

 ホワイトヘッドは全体を通して確かにカントを批判的に乗り越えていこうとする傾向があるから、やはりそのカテゴリーなり思弁哲学的構図の内実になんらかの差異を彼自身はしっかり認めているのだろう。現段階で、この第2回までで確認できるホワイトヘッドの反カント的主張は、序文における「否認されるべき行きわたっている思考習慣」での言及のみである。そこでは「純粋に主観的経験からの理論的構成物としての、カントの客観的世界の学説」が批判されている。

 カントにおける「客観的世界」が何を示すか、ここで厳密に問うことは私には到底できないが、とりあえずカントの学説を、主観に与えられる現象から出発し、それを経験する主観構造の客観性を示し、それに基づいた世界像を理論的に設計する試みであったとみなすことが許されるのであれば、批判対象はカントの学説の全体、すくなくともその骨子であることになる。しかしこのような、経験から出発する現実像の設計をホワイトヘッドも目指しているのだということは先に確認した。すると興味深いのは、「純粋に主観的経験からの」という箇所である。ホワイトヘッドがカントに対する批判点として考えているのは、この「純粋な主観的経験」への疑義であるように、私には思われる。確かに「純粋性」は、ホワイトヘッドの考える有機体の哲学とは些か縁遠い言葉であるように感じる。前回も見たように、完全に孤立したものというのは、いかなるものであっても考えられない。すべては関係というネットワークに巻き込まれ、純粋無垢であることはできない。今回みた「整序性」は、観念においてもそれは諸観念や事物との関連から解放されることはないことを示していた。

 ホワイトヘッドが(カントに倣って)現に経験されるもの、経験され得るものから構図を練り上げようとしていることは間違いないだろう。しかしその経験の主体に対して、その主体が孤立しているものでは決してないことに、ホワイトヘッドは焦点を当てているのではなかろうか。私は、のちに言及される「改善された主観主義原理」が、この意味においてキーワードになるだろうと踏んでいる。それらは、ホワイトヘッドが序文でいうところの「カント以前の哲学者への還帰」として、デカルトやヒューム、ロックに対する詳細な分析をするにとどまらず、それを「修正」する形で有機体の哲学が標榜するのだと語られている。*5

 今回は思弁哲学の目的、理想としての構図設計について、それが持ち合わせる性質を見た。ホワイトヘッドとカントが理念を半ば共有するのではないかという議論は、ちょっと危険だった気もするが、追って改善できればと思います。

それでは。

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*1:単に章ごとの文量がまばらで、まとめるのが結構ハードだという情けないワケもある

*2:むろんその回収に気づかないというのもあり得るし、それもまた重要な事実であろう。

*3:私の好きなA.Sホーンビーの『新英英辞典』には、"able to stick together"と第一に示されている。なるほど、確かに整合性は常に何かと何かの、相互の接合可能性である。

*4:19,20世紀の英米系の哲学者は、カントの『純粋理性批判』を幼い時から読んでたりすること普通にあって、ホワイトヘッドもそうだったようだ。あとはC.Sパース。

*5:これに対する詳細な記述は機会を改めるが、構図の具体的な解説が行われる第一部第二章の「相対性原理」との重大な関連がホワイトヘッドによって指摘されている。個人的には、「相互作用的な認識」、「認識による主体と客体の相互変質」みたいなイメージを抱いたが、あくまでもイメージ。