マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第1回〉序文から

 この『過程と実在』という本が、「この講義は、デカルトに始まりヒュームで終わった哲学思想の局面へ回帰することに基づいている」という宣言から始まっているという点は、やはり注意すべきではないかと私は思う。ホワイトヘッド自身、序文において「17・18世紀の一群の哲学者ならびに科学者」からの逸脱を予測していたけれども、結局自分のやってることは「カント以前の思考様式への回帰」*1であった、と書いている。

 この序文において、ホワイトヘッドをして自身の「有機体の哲学」を「先取り」していたとさえ言わしめるのはジョン・ロックであった。特にホワイトヘッドは、『人間知性論』の第4巻でのロックの記述を評価している。

 ホワイトヘッドが特に脚注で言及していた箇所*2を読んでみると、なるほど確かに多くのモチーフをホワイトヘッドの思索と共有していることが見てとれた。

 私たちは、自然の秘密へ入ることを許されるどころではなく、秘密の最初の入口にさえ、およそ接近することがまずない。というのは、私たちは、自分の出会う実体を、それぞれ、そのあらゆる性質を自分自身のうちにもち、他の事物から独立する、それ自身で完璧な事物と考え慣れ、実体を囲繞する目に見えない〔微小な〕流体の作用を大部分は見逃すが、実体のうちに覚知されて、私たちが〔実体を〕区別する内属的標印すなわちそれによって実体を知り呼称する内属的標印とする性質のほとんどすべては、この流体の運動と作用に基づくのである。

 ロックは、ある種思考実験的に、何かあるものを真に独立させた場合、それはそれがそれであるところのものを完全に失うこと、それは本質的にその外部との関係に依存することを強調する。ロックの例は些か大胆ではあるが明快である。外的環境を取り去った生き物、例えば空気との関係を持たない生き物は本来の生き物たりえない、つまり生存が不可能になってしまうであろう。また関係が消失せずとも、それが変化することによって影響を被ることもロックは指摘する。例えばそれは太陽の位置の変化による地球の住人たる我々への多大な影響であり、それは我々の「内属的標印」、つまり内的な本質の維持にとって重大に差し障るだろう。*3

 我々に経験され得るあらゆるものが、それ自体として完結しているのでは決してなく、むしろそれらは相互に作用し合うことでそれらたりうるという主張を、ホワイトヘッドはロックから取り出しているように思われる。*4序文における「諸事物の本性のうちにある深みを探索する努力が、どんなに浅薄で脆弱で不完全であるか」というホワイトヘッドの言と、「事物にあると私たちに見える諸性質を事物が自分自身のうちに包含すると、そう私たちが考えるとき、私たちは全く道を外れている」というロックの言は、奇妙なほど合致している。

 しかしながらホワイトヘッドは、ロックの注釈として本書を書いているわけでは決してない。ホワイトヘッドはロックを含む一群の哲学者に対して「首尾一貫性に欠ける前提に悩まされていた」と評している。このあたり、つまりホワイトヘッドのいう首尾一貫性や整合性については第一部での宇宙論的構図の提出の際に言及されることと思うから機会を改めたいが、興味深いのはそれに続く以下の指摘である。

彼らないし彼らの後継者が、厳密に体系的たろうと努力してきたかぎり、彼らの思想においては、まさに有機体の哲学の基礎になっている要素が放棄されるのが通例であった。

 これをもって有機体の哲学が体系構築を放念しているとみなしてしまうのは私としては憚られる。まず創発する現実に対して厳密に閉じた体系を構築しうるかという点には直観的な疑問があるし、そもそも閉じた体系、開いた体系とはなにか、という問いは考える価値を持つと私は思う。ホワイトヘッド自身は、自分の構図に対し「事物の可能な相互関係を表現するのに十分な、すべての類的観念を展開」することに成功しているとの評価を下しているが、それが具体的にどのようにして、そしてどのような意味で成功しているのか、あるいはある意味では失敗しているのかは、これからどうにか見定めねばならないだろう。

 今回は序文から、特に有機体の哲学とロックの哲学の親和性をみた。序文は他にも取り出すべきアイデアが多分に含まれるだろうけれど、それは後から追っていく形でもとりあえずはいいかなと思っている。*5とりあえずホワイトヘッドが第一部で展開する宇宙論の構図が、一群の哲学者の経験についての論と突き合わせて編まれていることを確認することが今回のねらいであったということにします。

 次回は第一部第一章から、思弁哲学とその構図を巡る議論になるはず。それでは。

 

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*1:さりとて決して「カントは駄目」という主張が展開されているわけではない。「経験の基礎の呈示において一面的ではあるが、全体として彼らは爾後の哲学の発展を支配する一般的呈示を与えている」。

*2:4-6-11

*3:認識対象と認識主体との関係に依る相互の本質決定とか考えうるだろうか

*4:ホワイトヘッドにおいてはそのような相互におこる「流体の作用」が「抱握」という概念に置換され、それらの創発する過程として現実が捉えられている

*5:有機体の哲学において否認されるべき「思考習慣のリスト」とか挙げられていて興味深いが、これらは具体的に検討される際に参照したい。