マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

ホワイトヘッド『過程と実在』〈第0回〉

 ホワイトヘッドという哲学者は、なかなか奇特な存在として見られがちであるというのが私の率直な所感である。*1彼の哲学史における立ち位置を正確に示すことは私の力量をゆうに超えてしまうからここでは避けるが、しかし単なる私の印象として、彼が一般的に主流とされる哲学者から何らかの意味で「逸脱」していると見なされているように思われることは、確かである。

 最近日本語訳が出たククリックの『アメリ哲学史』は、知見の浅い私にはかなり包括的かつ緻密な本であると思われるが、開始3ページでホワイトヘッドについての解説が本書の主眼からは外されることが宣言されている。もちろんこれにはホワイトヘッド自身がイギリス人であること、そしてなによりククリックが所謂「百科事典」を目指してこの本を書いてはいないことが要因としてあるだろうが、とにかくホワイトヘッドは、アメリカ哲学のメインストリームを形成する哲学者として強調されるべきだとは(少なくともククリックにとっては)考えられていない。

 そして、目下見受けられるホワイトヘッド研究は、そのような「逸脱」にこそ価値を認めるきらいがあるように私には思われる。具体的に言えば、論理実証主義にも、あるいはプラグマティズムにも与しない、新鮮かつ斬新な形而上学者としてのホワイトヘッドを描き出す試みとしての研究が、多くなされているように思われる。*2

 しかし私は、従来の哲学に対する魅力的なカウンターを求めてホワイトヘッドを読みたいわけではない。ただこの私に去来する世界、現実を整合的に概念的記述に落とし込む「可能性」を求めてホワイトヘッドを読みたいのである。その記述がもし成功した形で見つかるのであれば、それが従来の哲学者の思索の中にない斬新さをまったく持たない陳腐なものであったとしても私は構わないし、逆にその記述の成功のためにホワイトヘッドの寄与するところがどこにも見当たらないことが判明すれば、私はホワイトヘッドと決別することになるであろう。私はプロセス学派に属したいのではなく、目下ホワイトヘッドの思考が現実世界の概念的再構築の一助となり得ると考えているに過ぎない。*3

 ホワイトヘッドの思想は実に広い可能性に満ちていると思う。しかしだからといって、風呂敷を広げすぎて整理に全く失敗するのであればまさに本末転倒であろう。「哲学の主要な危険は、証拠を選択するにあたっての狭さである。」(p601)というホワイトヘッドの言葉は、まさにその通りだと思う。しかしこれはただただ広い可能性の海を志向せよというのではなくて、可能性の選択に際し、多様な現実との整合性を忘却してはならないという主張であることが注意されねばならないように思われる。むやみに雑多な可能性へと手を伸ばすことは、むしろ選択の幅を狭めることに他ならない。

 いきなり書き始めてしまったのでかなり乱雑だが、とりあえず私は落ち着いてホワイトヘッドを読むことをこのブログでの目的にしたい。ホワイトヘッドが本当に突拍子もないヤバいことを言っている可能性、全く新しいことをやっている可能性は確かにある。しかしそういった方向に飛びつく前に、彼がプラトンアリストテレスデカルトやヒュームといった伝統的な哲学者に対する緻密な読解から論を組み立てていることにまず注目して、そこから生じ得るより強度の高い現実性の理論について、目を向けていきたいと思う。*4

 次回はその観点から序文を読みたいと思います。それでは。

www.amazon.co.jp

 

www.amazon.co.jp

*1:「ああホワイトヘッドねえ、、、なんで?」とか言われたりする

*2:現在最も新しいホワイトヘッドの研究書はハーマンとかメイヤス―とか所謂新しい実在論の色が濃い

*3:学派みたいなものって意外と馬鹿にならない効果を良くも悪くも持っていると思っている。

*4:ホワイトヘッドが伝統的な認識論から宇宙論を展開していくことについて