マッハ軒

ホワイトヘッドとか、鑑賞した作品についてとか

再開

 新年ということで、暫く凍結していたブログを解凍していこうと思う。何も更新していなかった一年半で、結構色々なことが起こった。第一希望の院試に落ちたり、髪を切ったり、卒論を出して学部を卒業したり、なんやかんや別の院に進学したり。

 ブログを更新しなかったのは、単にあまり元気がなかったからだと思う。当初はよくわからないもの(ホワイトヘッド)をなるだけわかるようにすることがこのブログの目的であったけれども、そもそもそのよくわからなさに付き合う必要はあるのか、とかそんな事も考えたりした。*1

 再開したのは、ある程度まとまった文章を一定量書くリハビリをしておかないと、修論の時に困りそうだからという、その程度の動機からだ。根本的な気分はあまり回復していないので、これまでより気楽な感じで進めようと思う。

 去年はほとんど映画ばかり見ていた。今思うと少しでも感想とか評価とか書き残しておく方が良かった気がするので、今年からはそんなこともしてみようと思う。

 

*1:今も考えている。

庵野秀明『シン・仮面ライダー』(2023)感想

 マスクを外して観に行ってみた。途中、マスクを付けていないのに口にかけ直すような仕草をしてしまい、身体の拡張(?)を感じるなどした。それはさておき。

 まあまあ面白かった。個人的にウルトラマンや怪獣特撮に比べて仮面ライダーは詳しくないということもあってか、*1大興奮とまではいかなかった。

 最初のシーンから、そもそもなぜ幼き私が仮面ライダーを見なかったかを思い出すことになった。なんというか、登場する怪人とか戦闘員がかなり「人っぽい」のだ。私はこの、そのへんの人に紛れてヤバい奴がいる、みたいな感じが苦手だったような気がする。*2

 流血描写もかなり激しくて、あれまあといった感じであった。かといって全編を通してリアルな肉弾戦をコテコテ描いているかといえば決してそうではなくて、バカっぽい戦闘シーンが多かった。あの長澤まさみのシーンはなんだったのか、どういう顔で見ればよかったのか。

 cgがリアルになればなるほど、むしろ実写の背景との差異が詳らかになってヘンテコな感じになる気がした。押井守の『アヴァロン』とかそのあたりの作品を見たときと似た感じがした。特にコウモリ怪人との戦闘シーンとか、ちょっと浮いた感じというか。

 話の内容はまあ普通だった。こういう人類を救済するとか(補完するとか)いったことが、ヒーローではなく悪役の常套句になったのはいつからなのだろうか。*3ゲンドウとかもそうだけど、「自己と他者との隔絶→その境目をなくしちゃおう!」みたいな論理をもっているキャラは多い気がする。

*1:なぜか仮面ライダーブラックは見た記憶あり

*2:実際のところやばい人なんてそこら中にいるのだが

*3:私はクリスチャニティではないからあまり余計なことは言わないでおく。

客体化についての覚書と、決断との関係について少し

 客体化について、それが最も原始的であまねく全ての契機の生成に取って根源的なものとしての「物的感取physical feeling」と関連させて述べられているところをまとめる。

 まずこの物的感じは、ある契機がある契機を抱握することである。これが全ての契機に取って根本的なのは、それが不可避的だからである。このことは、ホワイトヘッドの「存在論的原理」そして「相対性原理」のそれぞれの帰結から得られる。つまり、「ある契機に先立つ全ての契機は、その契機に感取される」こと、すなわち「ある契機に先立つ全ての契機は、その契機をなんらかの意味において構成すること」がこの二原理から帰結する。もっと言えば、先立つ契機は後続する契機に対して因果的な効力を発揮しているとさえ言える。したがって物的感取は「因果的causal感取」とも呼ばれる。

 しかしながら、このことから、新しい契機は古い契機全ての単なる再生であるということは帰結しない。寧ろこのようなことはありえないだろう。現象学の文脈でよく参照される例で考えてみる。例えばメロディの知覚は、たった今聞いている音の聴取経験に、過去の音を知覚するという契機が作用していることの好例になる。しかしこの現象は、過去に聴いた音という先行する契機が現在に「再生」されているのでは明らかにない。先立つ音は過ぎ去っているものとして、現在の音をメロディという秩序のもとに聴こえさせている。

 ホワイトヘッドが、知覚におけるこうしたある種の「反復」を語る際にもちいているのが「客体化」という語である。具体的には、先立つ契機Aが後続する契機Bに客体化されるとき、Aは自身を構成する諸々の感取を媒介してBに伝達されるというのだ。ただしこの媒介に先立って、契機と契機はより直接的な関係を持っている。それが先に見た因果的感取による関係である。因果的感取によって解決されるのは、ある契機に「何が与えられるか」という問題である。契機に与えられるのは、不可避的に与えられる先立つ契機に他ならない。他面客体化によって解決されるのは、「ある契機がどのようなものとして与えられるか」という問題である。*1先立つ契機Aの全体が、後続する契機Bに与えられるのではない。Aは、それがある感取をもっているものとしてBに感取される。ここにはある「抽象」が起こっているのだとホワイトヘッドは強調する。契機Aは、自身を構成する多くの感取に分析可能である。そして、そのような多くの感取からのあるものは除去されてBに与えられる。この抽象のプロセスを描くのが客体化である。

 重要なのは、ある契機からある契機へと伝達されるのは先行する契機に内在するいくつかの感取であって、契機そのものではないということである。しかし感取というものに本来的に備わっている固有性、つまりある契機に「ついての」感取であることのために、因果的な効力がなくなるわけではない。あくまでも、ある契機がもつ諸々の側面が、ある契機に客体化されるのである。このことを、ホワイトヘッドは「パースペクティブ」という語で表現する。先行する契機Aを構成する感取のうち、ある感取Xを通して新しい契機Bに客体化されるとき、XはAの、Bにとってのパースペクティブだとされる。

 問題となるのは、この抽象作用の具体的な内実である。それは新しい契機の自発性に由来するのか、それとも古い契機によっても差配されるものなのだろうか。私の解釈では、古い契機における決断が、新しい契機への客体化を差配するというものである。これは後に詳しく見ることだが、決断はあるふたつのタイプを持つ。それは「離向aversion」と「対向adversion」である。これらの訳語は難しいが、それぞれ否定的な評価と肯定的な評価と言った意味に対応する。ではこれは何に対する評価なのかというと、ホワイトヘッドの主張によれば、ある契機における決断は「それ自身の内的な決定に対する反応reaction」*2なのだから、満足の段階において決定されたその契機という事実に対する評価、もっといえば、自身を構成するある感取に対する評価だといえよう。

 さらにホワイトヘッドは、明らかにこの離向と対向とが客体化に際して機能することを示唆している。そこでは、ある感取に対する離向は、「その感取のもとにin the guise of その感取の主体が客体化されることを妨げるinhibitsか弱化attenuatesし」、したがって「その主体が未来に客体化される手段の一つの可能性を除去eliminateする」とされている。*3

 このあたりをもう少し掘り下げれば、決断と客体化の関係ももう少し鮮明になる気がする。

*1:以前の私の主張では、客体化によって「先立つ契機が後続する契機をどのような意味において構成するか」という問題が解決されるとも誤解されかねない。しかしそれはおそらく間違っている。ある契機が客体化されることによって諸々の感取が反復されたとしても、その感取はそのままの形では実現され得ないかもしれない。というのも、他の契機からの客体化も被るかもしれないし、それらの諸感取との相互作用も加味しなければならないからだ。客体化が解決するのはあくまでも契機における与件の問題であり、その与件をいかに処理して新しい契機を生じさせるかは契機における満足の問題である。これらはそれぞれ、移行と合生ということなるプロセスに属することは以前に見たとおりである。

*2:PR28

*3:PR277

北野武『BROTHER』(2000)感想

 北野作品はまあまあ見ている。最後に見たのが確か『DOLLS』か『キッズ・リターン』のどちらかだったので、久しぶりにバイオレンスな北野作品を見たことになる。

 結論から言うと良かった。良かったけど『その男』や『ソナチネ』のほうが良かった。この二作品は終始淡々とバイオレンスしてるけど、今作は割とこってりしていた気がする。

 大体において北野作品は本当にどうしようもない感じで終わるものだと思っている。殊に北野本人が演じる役どころに関しては今作もその例外ではない。永遠に死に向かい続けている。今作の意外だったところは、北野武が演じる役「だけ」の物語ではなかったところである。さっきあげた二つの作品は、どうしたって「北野武が演じる男の」物語である印象がある。そのテーマを反復的に描き続けていたのが作品のすごみを増長していたとさえ思う。

 タイトルの通り、ある種の兄弟の物語である以上まあ一人だけの物語を意図しては居なかったんだろう。血の繋がった「兄弟」、ヤクザ社会における「兄弟」、そしてこれは解釈も入るけれど、純粋に親愛なる他者としての「兄弟」の三様が上手く描かれてたことと思う。さっき「意外だった」といったのは、この三番目の兄弟にある種の「救い」があったように描かれていることに関連する。これまで北野の役どころは、大体の出来事をクライマックスの出来事(自死なり突撃なり)でご破産にすることが多いというか殆どだったが、今作においては明確に「継承」があったと思う。

 このことによって、一般的に見て物語はなめらかに、きれいに感ぜられる。個人的にはご破産な映画も大好きだけど、まあ北野武はこういう終わり方もうまいことやってると思う。でも最後のシーンはヒヤヒヤしながら見た。基本的に人が大金を手にして車に載っていると、衝突事故で死亡してしまう気がしてならないのだ。

 他の作品との関連について。兄弟分であるヤクザが拳銃を頭にぶちこんで自死するシーンが有るのだけど、これはおそらく『ソナチネ』のあるシーンに応答する形で描かれていると思う。寺島進が両方とも出演しているのだが、『ソナチネ』では兄貴(両作品とも北野武)が戯れで頭に向けて弾の入っていない銃の引き金を引き、それを止める役を演じているのに対し、本作では自分が本当に弾を撃ち込む役へと回っている。

 また思ったのは、北野武はある種のダレ場を使うのがうまい気がするということだ。基本的なテンションは特別張り詰めているわけではないが、北野映画における死はカジュアルでその辺に転がっているようなものとして描かれる。だから場面としてはダレているはずなのに、意識外からの死の訪れを我々に警戒させるようにその画が機能しているような気がする。具体的には、北野はいい大人達が全力で遊んでいるシーンを引きで撮ることが多い気がする。『ソナチネ』ではフリスビーで、今作ではラグビーボールで遊ぶシーンが、共に海岸における印象的な画で収められている。

 展開のリズムと冷酷さは、今作においても見て取れる北野映画の骨子だと思う。でも今作は割りと丁寧な作品だった気もする。

ある契機の決断によって他の契機にとっての与件が供されること(追記1/30)

 今回は重要な箇所を長めに訳して、たしかに決断によって与件が供されるという事態についてホワイトヘッドが語っていることを確認する。

【ひとつの現実的存在を構成する四つの段階the four stages constitutive of an actual entityについて】それらは与件、過程、満足、決断と名付けられる。両端の段階the two terminal stagesは、定着したsettled現実世界から新しい現実的存在への移行transitionという意味における「生成becoming」に関連している。新しい現実的存在は、定着した現実世界が規定されているdefinedということに相対的である。しかし、そのような「規定definition」は、関連する諸存在【定着した現実世界のことか】に内在する要素として見つからなければならない。そのような、あるひとつの現実的存在が「見つける」「定着した現実世界」が、その存在にとっての与件datumである。この与件は、関連する永遠的諸客体によって供される、「定着した」世界の限定されたパースペクティブlimited perspectiveと見做されるべきである。この与件は、定着した世界によって決断されている。そしてこの与件は、定着した現実世界を超え出る存在によって「抱握されるprehended」のである。与件は経験における客体的内容objective contentである。与件を供するproviding the datum決断とは、自己限定された欲求の移送transference of self-limited appetitionである。つまり定着した世界は、そこに含まれる多くの現実性many actualitiesが両立的にcompatibly感じられうるような「リアルな可能性real potentiality」を供する。そして、新しい合生はこの与件から始まるのだ。パースペクティブは、両立不可能な諸々の事柄を除去することelimination of imcomapatibilitiesによって供される。最終段階である「決断」は、個体としての満足を獲得した現実的存在が、その存在自身を超えた未来にとっての定着に対していかに決定的な条件determinate conditionを加えるか、ということである。したがって「与件」は「受容されたreceived決断」であり、「決断」は「伝送されたtransmitted決断」である。このふたつの決断の間に、「過程」と「満足」のふたつの段階がある。与件は、最終的満足に関しては不確定indeterminateである。「過程」は感じの要素を追加していく段階である。それによって諸々の不確定性は、個体的な現実的存在の現実的な統一unityを獲得する、決定的な結合determinate linkagesのもとに解消される。

 重要な点は、ホワイトヘッドがこの四段階をひとつの契機の「合生の」段階ではなく、あくまでもその契機を「構成するconstitutive」段階として位置づけていることは肝要だ。このことによって、(この論点は繰り返すようだが)決断が必ずしも合生段階に位置づけられることはなく、それでいてなお、決断はその契機を構成してもいるといえる。決断は契機の移行過程に位置づけられ、それによってその契機を構成するというのが私の解釈だ。

 さて、ある契機はそれに先行する諸契機、つまりここで言われているところの定着した現実世界から創始する。つまり合生過程を始める。その最初の段階が与件である。この与件とは何か。ここで与件は、単に定着した先行する諸契機(事実)ではない。そうではなく、与件となるのはその諸契機についてのある限られたパースペクティブである。そしてそのパースペクティブは、何らかの永遠的客体によって供される事が言われている。

 この永遠的客体とは何か、ということが次の問題だ。その永遠的客体が定着した現実世界を規定しているものとして、その世界の内部に見つけられると言われていることはヒントになるだろう。「規定」とは、第20の説明に明らかなように*1、ある契機が選択された永遠的諸客体を例示するillustrateことを指し、この場合その契機は諸々の永遠的客体に規定されていると言われる。例えば私があるとき手に持っているリンゴをかじるという契機は、リンゴの赤さや味、諸々の質に規定されている。

 しかし、先行する契機の規定性に寄与する「いかなる」永遠的客体も、後続する契機に与えられるのだろうかという疑問が湧く。つまり先行する諸々の契機のパースペクティブは無数に考えられるが、それらすべてが与件として与えられ、新しい合生の中でその中からの自由な選択がなされるだけなのだろうか。そうではないと私は考える。反対に、パースペクティブが限定されたlimitedものである限り、決断によって供される与件としての永遠的客体は、一定の秩序を備えたものであると考えている。じっさいにホワイトヘッドは、決断はその限定づけlimitationという機能を通じて、ある永遠的客体のみを先行する契機のパースペクティブとして後続する契機に伝送し、その他の永遠的客体を追放relegationしているのだと主張している*2

 よって問題は、決断に伴う限定づけによって新たな契機に与えられる永遠的客体の範囲をいかにして策定することができるか、である。これに関して重要な概念はふたつある。それは「関連性relevance」と「両立(不)可能性」である。ホワイトヘッドは客体化についての文脈で以下のように述べている。

【新しい契機にとっての】与件における全ての個別的な客体化は固有のパースペクティブを持っている。それは、他の【契機のこの与件への】諸客体化と両立可能であるような【この与件に客体化された先行する契機に】固有の関連性を伴った固有の永遠的諸客体によって規定される。*3

ここでは、先行する契機のパースペクティブの規定されるプロセスが語られている。まず契機は、それに固有の関連する永遠的客体の領野を持っている。そしてその領野を持っている諸々の契機は、客体化される際に相互にその領野を制限し合う。このことによって、先行する契機がいかにして客体化されるか、つまりどのような永遠的客体を自身のパースペクティブとして新しい契機に与えるかが決定される。

 ここで意外にも、決断と客体化が必ずしも同一視出来ないことが見えてくる。というのも客体化の様態、つまり先行する契機のパースペクティブが十分に決定されるには、ある他の契機のパースペクティブとの両立可能性を診断する必要があるように思われるからだ。しかし決断はあくまでもひとつの契機における段階でしかない。与件の決定は、ある単一の契機の決断だけではなし得ない。そこに共在する他の契機との相互作用を加味しなければならないのだ。

 したがって私は、ある契機における決断を、他の契機の与件として受容されうる自身の可能的なパースペクティブを限定する作用として仮説的に定義したい。このことによって、ひとつの契機が新しい契機の与件と成るまでのプロセスは(1)ある契機の決断によって、その契機に固有の関連性を持った諸永遠的客体が策定され、(2)さらに他の諸々の契機がその決断を通して策定した永遠的諸客体との両立可能性が診断されることによって、その契機の実際のパースペクティブが決定される、という二段構えとして理解できるはずだ。このことは先に見た「受容された」決断と「伝送された」決断という区別にも対応すると思っている。決断によって可能的なパースペクティブを形成する諸永遠的客体は新しい契機に伝送されるが、それが実際に与件として受容されるとは限らない(他の契機の客体化と両立不可能かもしれない)といえそうだからだ。

 次回以降はまずこの仮説に無理がないか、「関連性」をテーマに少しずつまとめていきたい。*4このことには今日触れずにいた奇妙な一文「決断とは、自己限定された欲求の移送transference of self-limited appetitionである。」というところも多分関係しているはず。

(以下,1/30の追記)

 決断と客体化の関係はもう少し慎重にやる必要があると思うので、この仮説をどうこうするのは後回しにして、暫くテクストを読み直す時間を取りたいと思います。次はそもそも客体化とはなんぞというところから。

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*4:両立不可能性については重要なので後回し

フランク・キャプラ『毒薬と老嬢 』(1944)感想

 戯曲ではなくキャプラが脚色した映画の方を観た。これはおもしろい。新婚旅行を控えた主人公が叔母の家に挨拶に行くのだが、その家を取り巻く環境がなんとも狂気的で、それでいて当人らはその狂気など気にもせず幸福そうにしているのがおかしい。主人公はそこでまあ様々な事情にとらわれていくのだが、降りかかる出来事の物量と内容がとにかく尋常ではない。それでいてその進行は残酷なまでに軽く、小気味良い秩序を形成している。複雑な因果関係とか心理描写などはなく、淡々とおかしな出来事が連鎖していく様が良い。

 それぞれの出来事に重要性の差異がない感じが、ある意味での客観性を生んでいる気がした。喜劇にとって重要な感覚として、「引いてみている感じ」があるという話を以前友人としたことを思い出した。展開が重層的だったり描写が濃密であるということはなく、寧ろ劇中を通して、レイアウトやくだり(やりとり)に同型性が認められることが、独特のリズムとおかしさを生んでいる気がした。

 あと一番好きだったのは、自分のことをテディ・ルーズベルトだと信じている主人公の兄弟だ。彼は常に同じようなくだりに登場するのだが、それがハズレ無しのおもしろさだった。彼にとって周りの出来事は全て国家に関わることであり、周りの人物のこともアメリカ政府の要人として理解している。自分の家の階段を登ることを「要塞侵攻」だと思い込んでおり、駆け上がりながら「突撃!!Charge!!」と叫ぶシーンは本当に気に入った。彼にとっては本当にそうなのだ。

 

前回の修正と補足

 前回、私は「決断は合生過程に位置づけられないこと」を強調したが、それは不正確だ。ホワイトヘッドは決断を合生過程に位置づけて語ることもしばしばある。このことはホワイトヘッドが決断について二種類あることを主張していたことに関連する。したがってより誠実な飯盛に対する批判は、この内の一方のみを決断概念の意味するところと解釈しており、他方を無視しているというものでなければならなかった。このあたりは論文にするときに組み込めばいいと思っていたけれど、批判を公開するのだからちゃんとしておかねばと反省した。

 さて、ホワイトヘッドは決断にも二種類あることを主張する。それが「内在的決断immanent decision」と「超越的決断transcendent decision」だ。しかし、この区別は議論の中で提示されてはいるものの、常に使い分けてくれているわけではなく、単に「決断」とだけ言われることが多い。このことが解釈をより難しくしている。

 具体的な区別がなされるのは第七章第四節においてである*1。そこで2つの決断は、永遠的客体がそこで果たす機能に関して区別されている。まず内在的決断においては、それがあるひとつの契機に固有の「形相的完結formal completion」にほかならないことが言われる。つまりそこにおいて、その契機の形成の与件となる過去の契機が、ある確定的な主体的形式(永遠的客体)を伴って受容され統合されることで、先行する契機が当の契機をいかなる意味で形成しているかが決定されているということだ。そしてこのことによって「直接的で特有な個体の満足satisfaction of immedeate particular individual」が達成される。重要なことは、少なくとも内在的決断においてそれは満足と区別されないという点であり、したがって内在的決断は合生過程に位置づけられる。

 しかしもう一方の超越的決断においては「過去から現在の直接性への移行transition」が起こっている。移行は、第十章第一節*2に明らかなように、合生とは区別される過程である。合生がひとつの契機における内的な構成に関わる一方で、移行は「特定の存在としての終結に伴って死した過程が、それとは異なる特定の存在の構成において原初的なoriginal要素としての存在になる」ことを意味する。重要なことは、ある契機における移行はその合生より後に位置づけられるという点である。*3というのも移行が決定するのは、それ自体としての生成(合生)を終えた契機が新しい契機の構成のためにいかにして供されるかであるからだ。このことは、あるひとつの契機の諸段階において満足のあとに決断が位置づけられていたことと考え合わせることができるだろう。このことから、超越的決断はその契機の他の契機への移行にこそ関わるのだと確認できる。

 同じ箇所でホワイトヘッドは、まさにこの移行という事態を説明する概念こそが客体化objectificationであるとしている。ここにおいて、移行・超越的決断・客体化はそれぞれ同一の事態に関連していることがわかる。それは、ある契機が他の契機の合生の与件として与えられるという事態である。よって次回からは、今一度決断についてのホワイトヘッドの記述に戻り、たしかに決断によって新しい契機のための与件が用意されることが主張されていることを確認し、それがいかなる意味においてであるかを客体化という図式を通して明確化することを目標にする。

*1:PR163-6

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*3:正確には、ある契機pの満足→pのiへの移行→iの満足→iのfへの移行といった順序である。この記述の場合、焦点があたっているのはiという契機である。iはimmedeate、pはpast、fはfutureを意味する。

決断概念について~決断は合生過程には位置づけられないこと~

 ホワイトヘッド研究において、決断概念がしっかりと定式化されることは少ない。他の研究者がどのようにその概念を扱っており、また扱っていないかの比較検討は必要な作業だけれど、このブログではまず内容的な部分を明らかにする方を優先する。さしあたってまず飯盛による決断概念の定式化を確認し、それに批判を加えることを通じて私の解釈の大枠を提示することにする。

 飯盛は、以下のように決断概念を定義している。

 

合生過程において、現実的存在が自らのあり方にかんしてなす主体的な働き。ホワイトヘッドは決断を、「切断」(cutting off)という語源的な意味でもちいている。合生過程に内在してくる過去の現実的存在は、この過程のうちになんらかの様態において包含されうる。だがじっさいには、ひとつのあり方においてこの過程のうちに包含され、それ以外の可能性は断ち切られる。これが決断である。現実的存在は、与件に対する決断をとおして、自己自身の確定したあり方をつくりあげていく。*1

 

まず注意すべきなのは、飯盛が決断を合生過程の一つの段階として位置づけていることである。合生というのは、あるひとつの契機が生成する過程を指す。つまり先立つ諸々の契機や諸々の永遠的客体を抱握prehendすることを通して、その抱握主体であるところの新しい契機が「何であるか」が決定される過程である。例えばコーヒーの香りを楽しむという契機は、それに先立つ諸々の実質(私がコーヒーを淹れるという契機や、その他私の身体器官を含む周辺環境を形成する数多の契機等々)を抱握した結果である。

 重要な点は、先立つ契機が後続する契機に「そのまま」内在するのではないという点である。これはホワイトヘッドが知覚を契機間の「抽象」として捉えたこと*2と関連している。先刻私が淹れたコーヒーは確かに、コーヒーの香りを楽しむという契機に抱握され、内在している。しかし先行する契機が後続する契機に単に反復されるのであれば、両者は同一の契機であると考えられる他ない。したがってここで起こっているのは先立つ契機の反復ではなく、先立つ契機のもつ何らかの性質の抽象である。この例で言えば、コーヒーの持つ味という性質は明らかに抽象されている。端的に言えば、私が淹れたコーヒーという実質は明らかに味を持っているが、後続する契機においてそれは実現されていない。私はコーヒーの苦味を舌で感じ取ることなく、鼻でその香りを楽しむことができるからだ。

 このことを飯盛の口吻に合うように説明しよう。飯盛のいう「合生過程に内在してくる過去の現実的存在」とは、ここでは私が淹れたコーヒーという契機である。私が淹れたコーヒーは、後に私によって賞味されることも、嗅がれることも可能だし、私がカップを落として床のシミになれ果てることも可能である。だからその契機は、後続する契機に「なんらかの様態において包含されうる」。飯盛のいう様態、つまりいかなる意味で先行する実質が後続する実質を構成するかには、非常に多くの可能性が認められる。しかしながら、「じっさいには、ひとつのあり方においてこの過程のうちに包含され、それ以外の可能性は断ち切られる」。というのは、ここで検討している諸々の可能性は、一つの契機に同時に実現されることはないからだ。事実としてそのコーヒーの匂いが私によって享受されたのであればコーヒーは床にこぼされたのではないし、また味わわれたのでもない。ただしコーヒーを飲み、またその時鼻腔に抜ける香りを味わうという契機は可能である。しかしこの契機は、これまで検討した味だけを明示的に味わう契機と、匂いだけを明示的に享受する契機とは区別されると考えて差し支えないだろう。

 飯盛の定式化において重要であろうことには、このような可能性の切断を行っている主体が、合生する契機そのものであるという点であろう。このことから以下のことが帰結する。先行する契機を後続する契機は不可避的に抱握しなければならず、前者は後者に「何らかの意味で」内在するのであるが、この意味は先行する諸契機によって決定されたりしない。先行する契機が後続する契機で発揮する機能やそこで持ちうる価値の可能性は、他ならぬ後続する契機によって、内的に選択されるのであり、先行する契機によって制限されるのではない、というのが飯盛の解釈であるといえよう。

 この定式化の一番の問題点は、決断はそもそも合生過程に位置づけられるものではないという点である。『過程と実在』第六章第三節における決断概念の位置づけによれば、*3決断は単一の契機の合生ではなく、先行する諸々の契機からある契機への「移行transition」に関わるとされているのだ。ここでは、あるひとつの契機における決断は、満足という段階の更に後ろの段階として説明されている。しかし満足という段階は、合生過程の終了を意味するものとしてホワイトヘッドによって記述されている。これは第一章第二節における25番目の説明*4に明らかである。満足によって、その契機が「何であるのか」という問題は解決される。それが様々な要素をどのように抱握し統合したのか、その結果どのような個別的事実が生じたのかは、決断を待つまでもなく満足の段階で決定されるのである。したがって飯盛の説明は、満足と決断を取り違えたか、あるいは決断を満足の前の段階に誤って位置づけていると考えられる。

 では決断が合生ではなく移行に関わるとはいかなる意味であるのか。具体的な考察は次回以降にするが、ホワイトヘッドの以下の区別は、合生と移行の区別を考える際に有用だろう。ホワイトヘッドは、第一章第二節における8番目の説明*5の中で、あるひとつの契機に対する説明には二つあることを示している。そのひとつが「他の現実的諸存在への客体化における可能性へと分析する」ものであり、他方が「それ自身の生成を構成していく過程へと分析する」ものである。この後者に合生が当てはまることは明らかである。合生は、様々な与件の諸抱握が相互に作用し統合される過程に他ならない。では前者を、移行の説明として解釈できるのではなかろうか。

 重要なのは、「客体化における可能性」という語が選択されている点である。これは先に飯盛の解釈を観た際には「様態」と呼ばれていたものに該当するだろう。ある契機が、いかなる意味において他の契機を構成しうるかという可能性が、そこでは問われていた。しかし飯盛が、この先立つ契機における可能性が後続する契機によって断ち切られることを指して決断であると主張していたのとは対照的に、私は先立つ契機がもつ固有の可能性を後続する契機に供する機能として決断を解釈する。この仮説に基づけば、飯盛の解釈からの帰結のように、後続する実質は外的には自由に先行する契機を客体化させるのではなく、寧ろ反対に、先行する契機が供する可能性が許す限りにおいてのみ客体化が起こると主張することができるであろう。私の見立てでは、ある契機の決断はその契機自身の形成には携わらず、寧ろその契機の他の契機の内部における可能性を制限している。この意味で、決断は契機間の移行に関連するのである。

 次回はこの移行について、決断が他の契機に対する与件を形成しているという主張から解釈していこうと思います。

*1:『連続と断絶』飯盛元章著、人文書院、2020年、289-290頁

*2:PR116

*3:PR149-150

*4:PR25-26

*5:PR23